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論文紹介

脳活動の共通パターンを探る──最新研究が見せた幾何学的アプローチ

「脳はどんな風に動いているのか」という問いに対して、これまで私たちは波形や数値で説明してきました。脳波計で測定すれば、ゆらめく線がモニターに映し出され、それをアルファ波やベータ波といったリズムで分類する方法が一般的でした。 しかし2024年9月に発表された研究が示したのは、もっと直感的で視覚的な答えです。脳の活動を多次元空間にマッピングすると、そこには共通して現れる基本の「型」が浮かび上がってきました。研究者たちはこれを「脳の動きを支える幾何学的な土台」と呼んでいます。 脳の活動を立体的に映し出す「スペクトルアトラクタ」 脳波には、アルファ波やベータ波などの周期的なリズム成分と、特定の周波数を持たない非周期的な背景成分(いわゆる1/fゆらぎ)が含まれています。従来の脳波研究では、これら周波数ごとの強さ(パワー)やリズムの同期性を分析し、脳の状態を探ってきました。 しかし、今回の研究チームは発想を転換し、脳波データの「形そのもの」を追いかけました。具体的には、まず脳波を周波数ごとに分け、それぞれの強さが時間とともにどう変化するかを取り出し、その動きを多次元空間に写し込みました。すると、点が集まって軌跡を描くようにまとまりが現れます。このまとまりは「アトラクタ」と呼ばれ、脳の活動を単なる波形ではなく立体的な形として表すことができるのです。 アトラクタとは、時間が経つにつれてシステムの動きが収束していく軌道のパターンのことを指します。たとえば振り子は最後に止まって一点に落ち着きますし、気象のような複雑な現象では蝶が羽ばたくような軌跡(ローレンツ・アトラクタ)が現れることがあります。では、脳波をアトラクタとして描くと、どのような形になるのでしょうか。図1がその結果です。 図1:EEGスペクトル・アトラクタの例(論文Figure 1より)(A) 若年層(黒)と高齢層(灰色)の平均脳波スペクトル。太い線は背景的な非周期成分を示す。 (B) 各周波数帯の強さ(色付き)と背景成分(緑)。 (C) 周波数ごとの強さの時間変化。 (D) 従来法で再構成した高次元アトラクタ(黒い軌跡)。 (E) 新手法(ETD)で主要成分に投影したアトラクタ。アルファ波や非周期成分はシンプルな軌道を描く一方、デルタ波やガンマ波は複雑でねじれた形になる。 このように脳波信号を「軌道=形」として表現することで、脳の状態を幾何学的に分析できるようになります。研究チームは、各アトラクタの形の複雑さ(次元数)を「幾何学的複雑度」と定義し、さらに異なるアトラクタ同士の形の類似性・予測関係を解析しました。 この解析には、収束的相互マッピングと呼ばれる手法が用いられています。難しい名前の手法ですが、簡単に言えば「ある軌道の動きから別の軌道をどの程度予測できるか」を調べるものです。こうした新しいアプローチによって、脳波の奥には共通する「型」のような動きが潜んでいることが見えてきました。 脳波の土台をつくるアルファ波と1/fゆらぎ 脳波と聞いて多くの人が真っ先に思い浮かべるのは「アルファ波」ではないでしょうか。リラックス時に優勢になる8〜12Hz程度の波で、「閉眼時に現れるα波」は昔から知られています。参考:脳波で変わる日常生活!アルファ波(α波)の科学的効果とは 一方で、近年注目されているのが、1/fに近い傾きを持つ非周期的な背景成分です。このゆらぎは、脳の興奮度や覚醒度といった状態と関連している可能性が指摘されており、新たな脳活動の指標として研究が進められています。 今回の研究では、この非周期成分とアルファ波が、脳波ダイナミクスを支える中心的な役割を担っていることが明らかになりました。 解析の結果、アルファ波と非周期的なゆらぎから描かれるアトラクタは、とてもシンプルな形をしていました。さらに、その基本的な形は他のすべての周波数帯にも共通して見られたのです。つまり、複雑に見える脳波の動きの奥には、アルファ波と非周期成分がつくる共通の「型」があり、それが全体を支えていることが分かってきました。 研究チームは、アルファ波と非周期成分を脳活動の中心的なダイナミクスと位置づけました。これらは常に揺らぎながら全体をまとめる土台のような存在で、その上に他の複雑な活動が積み重なっていくと考えられます。例えるなら、オーケストラで常に響いている低音のベースのようなもので、派手に主張するわけではないけれど、全体の調和とリズムを支えている存在です。 興味深いことに、従来の線形解析では周波数帯同士の相関はごく一部(例:アルファとベータ間)でしか強くありませんでした。しかしこの幾何学的アプローチでは、アルファ波と非周期成分が全ての周波数帯と強い結びつきを示すことが分かりました。 脳内の信号同士がどのように影響し合っているかを見る新たな指標として、この「幾何学的クロスパラメータ結合(異なる周波数帯同士の結合)」は非常に有望と言えるでしょう。 加齢がもたらす脳のシンプル化 では、この幾何学的コアは年齢によって変化するのでしょうか。研究では、20代前後の若年成人138名と、60代前後の高齢成人63名を対象に、安静時の脳波データが比較されました。 その結果、高齢者では若年者に比べてアトラクタの幾何学的複雑度が全体的に低下していることが明らかになりました。つまり、脳波の軌跡を表現するために必要な次元の数が減り、全体として脳の動きがよりシンプルになる傾向が見られたのです。 一方で、異なる周波数帯同士の結びつき(クロスパラメータ結合)は、高齢者の方が強まる傾向にあることも分かりました。その背景には、加齢に伴い、脳の機能的な専門性(分化)が低下することが示唆されています。 今回の研究で観察された、ガンマ波の活動パターンが他の周波数帯と似通ってくる傾向は、この加齢に伴う脳の機能変化の一端を捉えているのかもしれません。 この発見は、脳の加齢に伴う機能変化を新たな視点で捉えるものです。高齢になると情報処理が遅くなったり柔軟性が低下したりすると言われますが、その一因として脳のダイナミクスの多様性(複雑さ)が減少し、柔軟性が失われることが示唆されています。 一方で、アルファ波や非周期成分といったコアの影響力が相対的に強まることは、脳が安定性を保とうとする一種の適応かもしれません。研究者たちは、この結果を「動的コア仮説」と呼ばれる考え方と関連づけています。これは、脳には統合と分化を同時に支える中心的な仕組みがあるという理論です。 今回の研究は、この理論を踏まえ、脳が発達や加齢に応じて、大きな枠組みから細かな構造へと形作られていく過程を説明する新しいモデルとして位置づけられました。 脳波の軌跡から見える意識のパターン では、この幾何学的コアと私たちの意識状態や思考の内容には、どのような関係があるのでしょうか。脳波の複雑さは、昔から意識の深さや種類と関わっていると考えられてきました。たとえば、覚醒しているときと眠っているときでは、脳信号の複雑さが大きく異なります。今回の研究でも、このつながりを裏付けるような興味深い結果が示されています。 被験者は別日に実施したfMRIセッションで、「ニューヨーク認知質問票」というアンケートに回答しており、自分の心が安静時にどんな内容(過去や未来のこと、ポジティブなこと・ネガティブなことなど)や形式(映像的か言語的か、曖昧かはっきりしているか)をさまよっているかを自己評価しました。 そのデータとEEGアトラクタの複雑度を照らし合わせたところ、ある周波数帯の複雑さだけが特定の思考内容と有意に関連していたのです。それはガンマ帯のアトラクタの複雑さで、これが高い人ほど「ネガティブな反すう的思考」傾向が強いことが示されました。 ガンマ波は集中や認知負荷と関係が深いとされますが、確かに悩み事などで頭がぐるぐるしているとき、脳は高速で複雑な活動をしているのかもしれません。逆に、マインドフルネス瞑想などで心が静まっている状態では、ガンマ活動が抑えられ、より低周波側が優勢になるという報告もあり、この結果は直感的にも頷けるものになっています。 他にも興味深い傾向として、高齢者では非周期成分アトラクタの複雑さが高い人ほど、ポジティブな内容や映像的な思考をしている傾向が見られました。一方、若年者ではそういった相関は明確でなく、年齢による違いも示唆されています。 これらの結果はまだ探索的な段階ですが、脳波の描く形からその人の内的な思考の傾向が読み取れる可能性を示しており、非常に興味深いポイントです。 まとめ:脳波の形に隠されたメッセージ 今回の研究は、脳波を「形」として読み解く新しい視点を示しました。アルファ波と1/fゆらぎが全体を支えるコアとして働き、加齢によりそのダイナミクスがシンプルになること、さらに脳波の形が思考の内容と結びつく可能性があること。どれも脳の奥深さを改めて感じさせる発見と言えるでしょう。 脳科学の世界ではしばしば、「意識とは脳内の統合と分化の産物だ」と語られますが、本研究はその考えを裏付ける幾何学的な証拠を提示したとも言えます。 もちろん、今回の成果は安静時のデータに基づいたものであり、因果関係や細かな仕組みについては今後の研究に委ねられます。それでも、古くから使われてきた脳波という手法に新しい視点を与え、脳の動きを形として「見る」試みに挑んだこと自体に大きな価値があります。 脳のリズムを単なる波としてではなく、奥に潜む形や構造として捉える発想は、これからの脳科学やニューロテックの可能性を広げていくきっかけになるかもしれません。 この技術は、将来的には意識レベルの評価や神経疾患の診断などに応用できる可能性も秘めており、ニューロテック分野に新たなインスピレーションを与える研究と言えそうです。 今回紹介した論文📖 Parham Pourdavood, Michael Jacob (2024). EEG spectral attractors identify a geometric core of brain dynamics. Patterns, 5(9): 101025. https://www.cell.com/patterns/fulltext/S2666-3899%2824%2900158-2

睡眠障害がホルモンバランスを乱す──最新研究で見る脳・ホルモン・代謝の深い関係

睡眠不足の翌日、つい甘いものに手が伸びてしまった経験はありませんか?夜更かしをした翌朝にイライラしやすかったり、お腹が空いてしょうがなかったりするのは、決して気のせいではないようです。 実は、睡眠とホルモンには密接な関係があり、睡眠の乱れが私たちの体内ホルモンのバランスを崩すことで、食欲やストレス、さらには代謝機能にまで大きな影響を及ぼすことがわかってきました。 2025年8月1日に発表された最新のレビュー研究では、睡眠障害が様々なホルモンの分泌リズムを乱し、それが肥満や糖尿病などの代謝疾患のリスクを高める仕組みを詳しく解き明かしています。「寝不足くらい平気」と思っていた人も、知らずに見過ごしていた「寝不足の代償」に、きっとハッとさせられるはずです。 眠れていない現代人、その実態とは? まず押さえておきたいのは、現代人の睡眠不足はもはや当たり前の状態になりつつあるという事実です。研究によれば、現在の人々の平均睡眠時間は100年前に比べて約1.5時間も短くなっていると報告されています。 実際に7時間未満しか眠れない「短時間睡眠者」の割合も、この数十年で約12%から24%へと倍増しているそうです。夜更かしや生活リズムの乱れ、スマホの普及など様々な要因で、多くの人が慢性的な寝不足状態に陥っているのです。 加えて、「睡眠障害」に悩む人も増えています。不眠症、睡眠時無呼吸症候群(いびきによる呼吸停止)、過剰な眠気に襲われるナルコレプシー、昼夜逆転の生活リズム障害、悪夢など、その種類は多岐にわたります。こうした睡眠障害を抱える人は世界的に増加傾向にあり、単なる個人の問題に留まらず社会全体の健康課題となっています。 問題は、こうした睡眠の乱れが、体全体に少しずつ悪影響を及ぼしてしまうことです。 最新の研究によると、慢性的な睡眠不足や睡眠障害は、体内で炎症を引き起こす物質を増加させ、結果的に糖尿病、肥満、メタボリックシンドローム(生活習慣病の集合体)などのリスクを加速させ、ひいては死亡率の上昇にもつながることが報告されています。 つまり、睡眠をおろそかにすると将来的な健康リスクがじわじわと高まっていく可能性があるのです。では、なぜ睡眠不足がこれほど健康に悪影響を与えるのでしょうか?その鍵を握るのが「ホルモン」です。 睡眠中に働くホルモンたち 人の睡眠は、「ノンレム睡眠(深い眠り)」と「レム睡眠(浅い眠り)」の2つに大きく分けられます。ノンレム睡眠は、脳波がゆっくりになる深い眠りで、脳も体もじっくり休ませる時間です。一方、レム睡眠は、夢を見ることが多い浅い眠りで、記憶の整理や感情の処理に関わっているとされています。 それぞれのタイミングで分泌されるホルモンも異なっており、この睡眠リズムがうまく機能することで、私たちの心身のバランスは保たれているのです。 眠りの深さで変わるホルモンの働き たとえば、深いノンレム睡眠に入ると副交感神経が優位になり、成長ホルモンが多く分泌されます。これは大人にとっても筋肉や細胞の修復・代謝を支える重要なホルモンで、特に眠り始めの90分間にピークを迎え、体のメンテナンスが行われます。 またこの時間帯には、ストレスホルモンコルチゾールの分泌も抑えられます。日中に高まったコルチゾールが、ぐっすり眠ることでリセットされ、朝に向けて自然なリズムで上昇していく──これが、目覚めのスッキリ感につながるのです。 一方、テストステロン(男性ホルモン)の分泌も、睡眠と密接な関係があります。テストステロンの血中濃度は夜間の睡眠中に徐々に上昇し、特に深いノンレム睡眠の期間中に分泌が促進されることがわかっています。十分な睡眠がとれないと、この分泌リズムが乱れ、朝のテストステロン値が低くなり、活力や筋力の低下につながる可能性があります。 このように、私たちが眠っている間、脳と体は休んでいるように見えて、ホルモンバランスの微調整という重要な仕事を黙々とこなしているのです。 睡眠と脳波の関係について詳しく知りたい方は、以下の記事を参考にしてください。 https://mag.viestyle.co.jp/sleep-through-brainwaves/ 睡眠不足は太りやすい?食欲ホルモンと肥満の関係 「睡眠不足だと太る」という話は、科学的にも裏付けられています。その鍵を握るのは食欲ホルモンの変化です。 満腹を促すレプチンは脂肪細胞から分泌され、食欲を抑えエネルギー消費を促します。一方、空腹を知らせるグレリンは胃から分泌され、食欲を増進させます。通常はこの2つのバランスで食欲がコントロールされています。 しかし、睡眠不足になるとレプチンが減少し、グレリンが増加します。その結果、空腹を感じやすく満腹感を得にくい状態になり、特に高カロリーや甘い食品への欲求が高まります。実際、ある研究ではこうした変化が「ジャンクフードの誘惑」に負けやすくすることが示されました。 さらに大規模調査では、睡眠時間が1時間短くなるごとに肥満リスクが約9%上昇するという結果も報告されています。もちろん食事や運動も影響しますが、睡眠時間は体重管理において無視できない要因です。 内臓脂肪だけじゃない、肝臓にも迫る影響 さらに興味深いのは、睡眠不足が内臓脂肪や肝臓脂肪の蓄積にも関わっている可能性です。近年、「非アルコール性脂肪性肝疾患(NAFLD)」は「MASLD(代謝機能障害関連脂肪性肝疾患)」と呼ばれるようになり、肥満や糖尿病と並ぶ代謝疾患として注目されています。 研究によると、慢性的な睡眠不足はインスリン抵抗性の悪化や脂質代謝の乱れ、さらに慢性炎症を通じて脂肪肝のリスクを高めます。具体的には、睡眠不足で増える炎症性サイトカイン(TNF-αなど)が脂肪を分解し、その脂肪が肝臓に蓄積しやすくなります。加えて、コルチゾールが高い状態が続くことで、肝臓に脂肪がたまりやすくなり、硬くなる(繊維化)リスクも上がります。 つまり、十分に眠れていないと、お酒を飲まなくても脂肪肝になる可能性があるのです。 いびきが糖尿病リスクを高める? 睡眠不足は血糖値のコントロールにも影響します。複数の研究で、睡眠時間が短すぎても長すぎても、2型糖尿病の発症リスクが上がるという「U字型」の関係が確認されています。 深いノンレム睡眠中は、副交感神経が優位になりエネルギー消費が抑えられ、血糖値は安定します。肝臓や筋肉は日中に使ったグリコーゲンを補充し、成長ホルモンの作用で脂肪酸を放出するなど、代謝の修復モードに入ります。 しかし、睡眠不足や睡眠の質の低下で深い眠りが減ると、この修復モードが機能せず、夜間でもコルチゾールや交感神経の活動が高まり血糖値が上昇します。高血糖状態が繰り返されることで、インスリンの効きが悪くなり(インスリン抵抗性)、糖尿病の発症リスクが高まるのです。 現実でも、睡眠時無呼吸症候群(OSA)では深い睡眠が著しく減少し、慢性的なコルチゾール過剰と交感神経の興奮が続きます。OSAの人は糖尿病の発症率が高く、特にいびきがひどい人や日中の強い眠気に悩む人は要注意です。放置すれば将来的に糖代謝の悪化や糖尿病につながる可能性があります。 睡眠不足は心臓にも悪い? 睡眠不足は、心臓や血管の健康にも大きく関わります。大規模な調査では、睡眠時間と心筋梗塞や脳卒中といった心血管疾患の発症リスクには「U字型」の関係があることがわかっています。 つまり、6時間以下の短すぎる睡眠や9時間以上の長すぎる睡眠に加え、慢性的な不眠や強いイビキ(睡眠時無呼吸症候群のサイン)も、これらの病気の発症リスクを高める傾向があります。しかもこの影響は、食事や運動に気をつけていても避けられない、独立した危険因子です。 その背景にはいくつかのメカニズムがあります。まず、睡眠不足によって交感神経が過剰に働き、ストレスホルモンであるコルチゾールが高い状態が続きます。これが血圧の上昇や血管の柔軟性低下を招き、慢性炎症を通じて動脈硬化を進行させます。 加えて、男性ホルモンのテストステロンや女性ホルモンのエストロゲンといった、血管保護作用を持つ性ホルモンの分泌リズムが乱れ、防御機能が弱まります。さらに、睡眠を誘発するメラトニンにも血管老化を防ぎ血圧を下げる作用がありますが、睡眠不足ではその分泌が減り、こうした保護効果が十分に発揮されなくなります。 このように、慢性的な寝不足や睡眠障害は、神経系・ホルモン・抗酸化作用という複数の経路を通じて、将来的な高血圧や心臓病のリスクを押し上げてしまうのです。 おわりに──「睡眠」は全身の健康を守る投資 睡眠不足や睡眠障害は、単なる「疲れ」や「眠気」だけでなく、ホルモンバランスの乱れを通じて、肥満、糖尿病、心臓病などの重大な病気のリスクを高めます。しかもその影響は、食事や運動だけでは完全に補えない、独立した危険因子です。 質の高い睡眠は、脳と体を修復し、ホルモンのリズムを整え、代謝や血管の健康を守る“全身メンテナンス時間”なのです。寝る時間を確保することは、未来の健康への最も確実でコストのかからない投資と言えるでしょう。今日からほんの30分でも早くベッドに入り、静かな夜を過ごすことが、10年後のあなたの体を守ります。 参考文献 Jiao, Y., Butoyi, C., Zhang, Q., Adotey, S. A. A. I., Chen, M., Shen, W., Wang, D., Yuan, G., & Jia, J. (2025). Sleep Disturbances and Hormonal Dysregulation: Implications for Metabolic and Cardiovascular Health. Nature Reviews Endocrinology, 21(8), 455–472. https://dmsjournal.biomedcentral.com/articles/10.1186/s13098-025-01871-w

朝食を抜くと心はどうなる?デジタルデータが映す食生活とうつ症状の関係

私たちにとって「食べること」は、毎日の楽しみであり、生活のリズムを整える大切な行動のひとつです。しかし、気分が落ち込んでいるときには、「なんとなく食欲がわかない」と感じることもあるのではないでしょうか。実際に、うつ状態にある人は、食事のタイミングや内容が乱れやすくなる傾向があるといわれています。 たとえば、朝食を抜いたり、夜遅くにドカ食いしてしまったりと、日々の食習慣に変化が生じやすくなります。こうした変化は、心の状態を反映している可能性があります。 では、うつと食習慣の関係を、主観的な感覚だけでなく、客観的なデータから確かめることはできるのでしょうか。この問いに対して、最新の研究が興味深い答えを示しています。 中国のある大学では、学生3,310人を対象に、約1か月間のキャンパス食堂の利用記録を収集しました。記録には、食事をとった時間帯や回数、購入したメニュー、支出額といった日常的な行動データが含まれています。さらに、期間の途中で実施した心理調査により、学生たちの抑うつ症状の程度を評価しました。 この研究では、日々の食事データと心理状態を突き合わせることで、うつ傾向のある学生がどのような食習慣を持っているのかを明らかにしようとしています。デジタル行動観察によって見えてきた、食生活と心のつながりに注目してみましょう。 うつ状態になると食習慣はどう変わる? 抑うつ状態になると、食欲が極端に落ちたり、反対に過食傾向が強まったりすることがあります。こうした症状は、精神医学の分野では以前から知られており、実際にDSM-5(精神疾患の診断・統計マニュアル 第5版)でも「食欲や体重の変化」はうつ病の診断基準のひとつとされています。 また、朝食をとらない習慣がある人は抑うつリスクが高くなるという関連性も、これまで複数の研究で報告されてきました。加えて、夕方以降に活動や食事が偏る夜型の生活リズムも、メンタルヘルス上のリスクファクターと考えられています。 また、朝・昼・晩の3食を毎日きちんと食べている人は、将来的にうつ病を発症するリスクが低いという研究報告もあります。反対に、朝食を抜いて昼と夜だけ食べる生活は、体内時計(概日リズム)の乱れを通じて、心の不調と関連する可能性が指摘されてきました。 ただし、これまでの多くの研究は自己申告に基づいたものであり、実際の日常行動を客観的にとらえたデータは限られていました。今回紹介する研究チームは、そのギャップを埋めるために、日々の食事記録と心理状態をデジタルデータから分析し、抑うつと食習慣の関係をよりリアルに明らかにしようと試みました。 メンタルヘルスについて知りたい方は、こちらの記事も参考にしてください。 https://mag.viestyle.co.jp/columm20/ 電子マネーの記録から学生の食行動を読み解く この研究は、中国のある大学キャンパスで実施されました。ちょうどCOVID-19の感染拡大対策として、学生たちはキャンパス内で生活し、すべての食事を学内の食堂でとるという環境にありました。食堂での支払いには電子マネー機能付きの学生証が使われていたため、「いつ」「どこで」「何を」「いくらで」食べたのかという詳細なデータが自動的に記録されていたのです。 研究チームはこの膨大な電子記録を匿名化したうえで解析し、学生一人ひとりの日々の食生活パターンを客観的に抽出しました。分析では、1日あたりの食事回数、朝・昼・夕それぞれの食事時刻や食間の間隔、各食事での支出額、食べたメニューの多様性など、合計6つの指標が用いられました。 さらに、1日の食事の組み合わせ(たとえば朝昼晩の3食すべて/昼と夜のみ/朝と昼のみなど)を7つのパターンに分類し、各学生がそのどのパターンの日を何日送っていたかを集計することで、食習慣の規則性も評価しました。 こうした客観的な行動データと、調査期間の途中で行われた抑うつ症状に関する自己評価(自己記入式尺度)の結果を照合し、どのような食行動が抑うつの程度と関連しているのかが分析されました。 最終的に解析対象となったのは3,310人の学生で、そのうち約3割が「抑うつ傾向あり」と判定されました。内訳は、軽度の抑うつが916人、中等度以上の抑うつが172人、残りの2,222人は健常とされる対照群に分類されています。 朝食を抜く生活が、メンタルヘルスの乱れと結びついていた こうして得られたデータを分析した結果、食事パターンの乱れが抑うつ症状の程度と深く関係していることが明らかになりました。特に中等度から重度の抑うつ状態にある学生では、朝・昼・晩の3食を規則正しくとる日が少なく、多くの日で「昼と夜の2食だけ」で済ませている傾向が見られました。 統計解析の結果でも、毎日欠かさず3食をとる学生の割合は、中〜重度のうつ群では健常者のおよそ半分にとどまりました。一方、昼食と夕食の2食だけをとるパターンは、軽度の抑うつ群で有意に多く確認されました。 つまり、抑うつの程度が重くなるほど朝食を抜く日が増え、1日の食事回数そのものも減っていく傾向があることがわかります。実際、重度の抑うつ群では平日・週末の両方で朝食をとる頻度が健常者よりも明らかに低く、朝食をまったくとらなかった日が多く記録されていました。 一方で、軽度の抑うつ状態にある学生では朝食の頻度自体は健常者とほぼ変わらないものの、1日のうち昼と夜だけで済ませる日がしばしば見られ、食事のリズムがやや崩れている様子がうかがえました。 うつの兆候は「いつ何を食べるか」にも表れていた さらに、食事をとる時間帯にも大きな違いが見られました。抑うつ傾向のある学生は、食事のタイミングが全体的に不規則で、日によってばらつきが大きくなる傾向がありました。特に昼食や夕食の開始時刻には大きな変動があり、食事と食事の間隔も一定しないことが多かったのです。 わかりやすい例として、1日の最初の食事(=朝食または昼食)の時間が、抑うつ傾向の強い学生では平均して健常者より2時間遅かったというデータがあります。これは、朝食をとらずに昼過ぎになってようやく食事をとるという生活が常態化していたことを示しています。 また、食事の内容にも注目すべき差がありました。抑うつ度が高い学生ほど、食べるメニューの種類が少なく、つまり日々の食事の多様性が低い傾向が見られました。一方で、夕食にかける金額は高くなるという特徴もありました。 簡単にまとめると、「うつ傾向のある人は朝食を抜きがちで、夕方にまとめて食べる」傾向が強いということです。こうした偏りのある食生活は、昼間に食事をとれなかった分を夜に補っている可能性や、夜になると過食しやすくなる心理状態(いわゆるナイトイーティング症候群)とも関連していると考えられます。 食行動のパターンで重度の抑うつを推測できるか? 興味深いことに、研究チームは収集した食習慣データを使って、抑うつ状態を客観的に検出できるかどうかの分析も行いました。具体的には、機械学習の手法のひとつであるサポートベクターマシン(SVM)に、各学生の食行動パターンを特徴量として学習させ、健常者と抑うつ傾向のある学生を分類させるという試みです。 その結果、食事パターンの情報だけをもとに、重度の抑うつ状態かどうかを約67%の精度で予測することに成功しました。決して完璧な精度とは言えませんが、日常的な行動データからメンタル不調の兆しをとらえられる可能性を示した点は非常に意義深い成果です。 一方で、軽度の抑うつ状態については予測精度が53%とほぼ偶然と同程度であり、分類は難しかったことも報告されています。これは、症状が軽いうちは食習慣の乱れも目立ちにくく、機械学習モデルでも検出が困難だったためと考えられています。 逆に、症状が重くなると食事パターンの崩れも顕著になるため、アルゴリズムでもより明確な信号として検出されやすかったと推測されています。 考察:見えてきた朝食の意義とデジタル活用の可能性 今回明らかになった「朝食抜き・夕食偏重」という食生活のパターンは、なぜ心の健康に影響を及ぼすのでしょうか。その背景には、私たちの体内に備わっている生理的なリズム(概日リズム/サーカディアンリズム)と、ホルモン分泌のサイクルが深く関係しています。 私たちの身体は、24時間の周期で動く内部時計をもち、そのリズムは睡眠や光、そして食事のタイミングによって調整されています。なかでも朝食は、体内時計に「1日のスタート」を知らせる重要な合図です。朝起きて朝食をとることで、昼と夜の切り替えがスムーズに行われ、代謝や気分のバランスも整いやすくなります。 しかし、朝食を抜いてしまうと、こうした体内のリズム調整スイッチが押されないままになってしまいます。その結果、内部時計がずれ始め、1日を通しての心身のリズムが乱れてしまいます。言い換えれば、朝食を抜くという行動は、身体全体を夜型へとシフトさせてしまう可能性があるということです。 このリズムの乱れは、具体的な生理機能にも影響します。たとえば、通常は朝に高くなり、日中にかけてゆるやかに下がっていくはずのストレスホルモン(コルチゾール)の分泌が、朝食を抜くことで高止まりしてしまう場合があります。また、血糖値のリズムが不安定になりやすく、脳内のセロトニンなどの神経伝達物質にも悪影響を与える可能性があります。こうした影響は、気分の落ち込みやストレス耐性の低下といった、心の不調につながるリスクを高めると考えられています。 実験的にも、食事時間が不規則になるとポジティブな感情を感じにくくなり、喜びや快感を得づらくなることが示されています。今回の研究で見られた「朝食を抜き、夕食に偏る」というパターンは、まさにこうした概日リズムの乱れが現実の生活にどう現れるかを示したものと言えるでしょう。 つまり、朝しっかりと食事をとって心身のスイッチを入れることが、メンタルヘルスの観点からも大切である理由が、こうした背景から見えてきます。 メンタル不調のサインを食事のログから見つけ出す さらに注目すべき点は、このような日々の変化をデジタル技術によって客観的に捉えることができたという点です。今回の研究では、食習慣のデータが「デジタル・マーカー」として、メンタルヘルスの状態と関連づけられる可能性が示されました。これは、ニューロテック領域における行動データの活用に新たな道を開く成果です。 これまで、うつ状態の評価は主に本人の自己申告や質問票によって行われてきました。しかしそれでは、症状がかなり深刻になるまで周囲が気づけないことも少なくありません。本研究のように、日常のなにげない行動──たとえば「朝食を食べたかどうか」といった記録から、本人すら気づいていないメンタルの変化をとらえられるようになれば、早期の支援や介入につなげることができるかもしれません。 実際、大学のキャンパスという閉じた環境で、学生たちが毎日何気なく行っていた「食堂でカードをタップする」行動が、心の状態を映し出す重要なヒントになっていたという点は非常に示唆に富んでいます。 「朝食とうつ」の関係を深く知るには、さらなる研究が欠かせない もちろん、こうしたアプローチには課題もあります。まず、今回の機械学習モデルの精度はまだ高いとは言えません。特に軽度の抑うつ状態を見分けることは難しく、今後の技術的な向上が求められます。行動パターンが大きく崩れる重度のケースでは検出しやすい一方で、変化が微細な軽症例では見逃されやすくなる傾向があります。 精度を高めるために、食事の情報だけでなく、睡眠や運動、スマートフォンの利用履歴など他の生活データを組み合わせることも考えられますが、それにはプライバシーの管理や誤検知への対応など、新たな課題も生じます。 さらに、今回の研究は中国の特定の大学で得られたデータに基づいているため、他の国や文化、年齢層でも同様の傾向が見られるかどうかは、今後の検証が必要です。食習慣は地域やライフスタイルによって大きく異なるため、それぞれの環境に応じたデータの蓄積が求められるでしょう。 そして最後に、この研究結果が示しているのはあくまで関連性であり、因果関係ではないという点にも注意が必要です。つまり、「朝食を抜くことがうつを引き起こす」のか、それとも「うつ状態にあるから朝食を食べられない」のかは、はっきりとは言えません。おそらくその両方が影響し合っていると考えられます。 それでも、今回の研究は規則正しい食生活がメンタルヘルスの維持に寄与する可能性をあらためて示してくれました。今後、前向きな介入研究などによって「朝食をとる習慣」がうつの予防や改善につながることが明らかになれば、「朝ごはんを食べよう」というシンプルなアドバイスが、科学的にも根拠あるメンタルケアの第一歩になるかもしれません。 今回紹介した論文📖  Zhu, Y., Zhang, R., Yin, S., Sun, Y., Womer, F., Liu, R., ... & Wang, F. (2024). Digital Dietary Behaviors in Individuals With Depression: Real-World Behavioral Observation. JMIR Public Health and Surveillance, 10(1), e47428.https://publichealth.jmir.org/2024/1/e47428

共通のコミュニティが脳をつなげる?──脳波から紐解く集団意識

スポーツ観戦中、自分と同じチームを応援する相手とプレーの見え方や盛り上がるタイミングがぴったり合って「気が合うな」と感じた経験はありませんか? その「気が合う感覚」は、単なる気のせいではないかもしれません。2025年に発表された最新研究によって、同じ集団に属している人同士では、脳波の活動が同期する可能性が示されたのです。 今回は、『EEG synchronisation reveals the impact of group identity and membership duration on social cognitive bias』という論文をもとに、「集団意識(group identity)」が、私たちの脳と認知にどのように影響するのかを解き明かしていきます。 「同じ集団」の人とは、脳活動も似る? 人は、自分がどの集団に属しているかによって、出来事の受け止め方や感情の動きが変わる傾向があります。これを「社会的アイデンティティ」と呼び、自分が所属する「内集団」には肯定的な感情を抱きやすく、対立する「外集団」に対しては否定的になりがちです。 たとえば、同じプレーでも、自分の応援するチームが得点したときは喜び、ライバルチームなら「運が良かっただけ」と感じるような現象がこれにあたります。 こうした主観の偏り、つまり「認知バイアス」は、近年の神経科学の研究により、感情や報酬の処理に関わる脳活動にも表れることがわかってきました。しかし、これまでの多くの実験は、短く単純な映像や課題を用いたものが中心で、実際のスポーツ観戦のように複雑で変化の多い社会的な状況で、脳がどう反応するかは、十分に解明されていませんでした。 このような背景のもと、今回の研究は「集団意識」や「ファン歴」が、現実に近い状況での脳活動にどう影響するのかを探るために行われました。 実験:脳波から読み取る「ファンの一体感」 野球ゲーム観戦中の脳波をリアルタイムで測定 研究の対象となったのは、阪神タイガースとオリックス・バファローズ、それぞれの熱心なファンたちです。研究チームは、各チームから16名ずつ、合計32名を招き、プロ野球スピリッツ2019というゲームを用いて自動生成された試合映像を視聴してもらいました。実際の試合映像ではない理由は、すでに見たことがある映像に対する既知効果を排除するためであり、ゲーム映像であっても、リアルなグラフィックや実況、歓声などによって、十分に臨場感のある観戦体験が再現されました。 映像は、阪神が勝つ試合、オリックスが勝つ試合、そして引き分けの試合の3パターンが用意されており、それぞれが約26〜33分の長さです。試合の内容は6回表から始まる構成で、その前半の流れは冒頭に30秒間の静止画像で要約されました。参加者は、4メートル先の大型スクリーンを一人ずつ観戦し、その間の脳波を測定しました。 視聴自体は個別に行われましたが、分析では、同じチームを応援する者同士のペア(内集団ペア)と、異なるチームのファンのペア(外集団ペア)を比較し、それぞれの脳波の類似度が検討されました。また、各参加者のファン歴も記録され、そのうち短い方の年数をペアの「所属歴」として設定し、ファン歴の長さが脳活動に与える影響についても分析が行われました。 Fig. 1. 参加者は、没入感のある体験が得られるよう、大型スクリーンで野球の試合映像を観賞しました。この図に示されたスクリーンは、複数の画像を合成したものです。図中では実験室の様子をわかりやすくするために明るい照明が使われていますが、実際の実験中は映像を見やすくするために部屋を暗くして行われました。 脳波の同期を測る2つの指標 本研究では、人と人の脳波がどれほど同じように反応しているかを調べるために、PLV(位相ロッキング値)とr(パワー相関)という2つの指標が使われました。 PLVは、映像や音といった刺激に対して、脳波のタイミング(=位相)がどれだけそろっているかを示すもので、注意や知覚など外部刺激への反応の一致をとらえます。 一方、rは脳波の強さの変化が他の人とどれだけ似ているかを示し、感情の動きや興奮度などの内面の状態の共通性を反映します。 この2つを組み合わせることで、外的な刺激に対する脳の反応と、内的な感情や覚醒の同期の両方をとらえることができ、より立体的に脳のつながりを理解することが可能になります。 Fig. 2. EEG同期指標を算出するためのプロセスを表す。まず、2人の被験者の脳波からバンドパスフィルタを通して特定の周波数の信号(アルファ波、デルタ波、シータ波)を抽出する。抽出した信号から周波数の特徴と、大まかな波形情報を分離して抽出し、被験者同士のそれぞれの信号の同期度をPLVとrで表す。 結果:同じチーム同士の脳波はより深く「共鳴」する 内集団では中心頭頂部におけるアルファ波の位相が同期 脳波の解析によって、同じチームのファン同士では、脳波の一種であるアルファ波(8~13Hz)の位相が高く同期していることが明らかになりました。この結果は、ファン歴の長さとは無関係に確認されました。アルファ波の位相は、注意や知覚の処理に関わるリズムとされており、特に外部刺激に対する初期の視覚処理や空間認識に関係があると言われています。 つまり、この結果から集団への所属歴に関係なく、「自分はこの集団の一員だ」という意識(社会的アイデンティティ)はどこに注目するか、何を見るかといった認知の向け方に影響を与えていると考えられます。 内集団のアルファ波の強さは所属歴の影響を受ける 興味深いことに、内集団では、ファン歴が長いほどアルファ波の強さが同期していることが明らかになりました。 今回の実験で見られたアルファ波の強さは、脳がどれくらい「目を覚ましているか」や「落ち着いているか」といった状態を表していると考えられます。特に、自分の意志で注意を集中させたり、感情に反応したりするときに、アルファ波の出方が変わることが知られています。したがって、この結果は集団への「帰属感」が、場面ごとの興奮状態や感情的な反応の一致に関係していることを示しています。つまり、長く同じチームを応援してきた人同士は、試合のどこで盛り上がるか、どこに注目するかが自然と似てくるのです。 所属歴が長くなるとデルタ波とシータ波の類似度が減少 一方で、アルファ波とは対照的に、より低周波であるデルタ波やシータ波の位相同期は、ファン歴が長くなるほど弱まる傾向が見られました。これらの周波数帯は、P300と呼ばれるより深い注意処理に関わる脳波成分に関連しているとされています。 この結果は、グループの違いにかかわらず、ファン歴が長くなると「注意が向くきっかけ」が人それぞれに多様化することを示唆しています。たとえば、経験豊富な野球ファンは、ホームランのような誰もが注目する場面だけでなく、選手の細かな動きや表情といったより繊細な要素にも目を向けるようになり、その違いがデルタ波やシータ波の位相同期に影響を与えているということが考えられます。 同じチームのファンでも、ライトなファン同士は感情の盛り上がりがそろいやすく、脳波の同期も高くなる一方で、コアなファン同士では、それぞれが独自の視点を持つために脳波の動きが多様化し、同期はやや弱まるという、まさに「人間らしい認知のクセ」が可視化された結果といえます。 所属歴が長くなると視野が広がる? さらに、前頭部のアルファ波の位相同期では、内集団・外集団の区別に関係なく、ファン歴が長い人ほど実況音声などの聴覚情報に注意を向けていた可能性が示唆されました。 脳の前頭部では、「聴覚N1」という聞いた音に対して脳が反応するときに出る信号が現れます。この信号は、アルファ波に近い周波数帯で観測されるため、前頭部のアルファ波の位相同期は、被験者の聴覚刺激に対する反応に関連していると考えられます。 したがって、この結果からファン歴の短い参加者は、主に映像に注意を向けていたと考えられるのに対し、ファン歴が長い参加者は、映像と実況の両方に注意を向けていた可能性があります。 その結果、実況に対する脳の反応がより似通い、聴覚に関係する脳波(前頭部アルファ波)の同期が強くなったと考えられます。 Fig. 5.(a) 散布図は、3つの電極位置(Fz、Cz、Pz)および3つの周波数帯域(デルタ、シータ、アルファ)ごとに整理されています。統計的に有意な効果はアスタリスク(* p < .05)で示されています。(b) アルファ帯域におけるCzおよびPz電極でのPLV(位相ロッキング値)の分布を示しており、ペアの種類(内集団と外集団)の違いが分かりやすくなるように設計されています。赤線と青線は、それぞれin-groupおよびout-groupの中央値を表しています。 Fig. 6. 強さの同期度の結果を表す。散布図は、3つの電極位置(Fz、Cz、Pz)および3つの周波数帯域(デルタ、シータ、アルファ)ごとに整理されています。統計的に有意な効果はアスタリスク(* p < .05)で示されています。"pair cat."および"fan hist."は、それぞれ「ペアの種類(内集団/外集団)」と「ファン歴(fan history)」を表す略語です。 「つながっている」と感じる感覚の正体 この研究は、スポーツ観戦というリアルな状況の中で、私たちが人と人との間に生まれる一体感や共通の関心が、実際に脳波の同期という形で裏づけられることを示しました。同じ出来事を見ていても、人は自分が属している集団や、そこにどれだけの時間関わってきたかによって、脳の処理の仕方そのものが変わってしまうのです。 このような「脳の共鳴」は、スポーツに限らず、日常のさまざまなコミュニケーションや集団行動のなかで起きている可能性があります。今後、社会的アイデンティティや認知バイアスに関する神経科学的な理解を深める上で、大きな手がかりとなる研究だといえるでしょう。 🧠 編集後記|BrainTech Magazineより 自分と同じチームを応援する人と「わかる!」「それな!」と感じる瞬間。その共鳴感覚は、どうやら「脳活動レベル」でも起きていたようです。 ただの気のせいではなく、脳波が共鳴することで「つながっている」と感じる。 この研究は、私たちの「好き」や「所属意識」が、感情だけでなく脳の働きそのものを通して人と人をつなぐという、見えないけれど確かな「共感の回路」を示してくれました。 📝 本記事で紹介した研究論文 Sanada, M., Naruse, Y. EEG synchronisation reveals the impact of group identity and membership duration on social cognitive bias. Sci Rep 15, 23719 (2025). https://doi.org/10.1038/s41598-025-08191-z

冷水浴の健康効果を徹底検証──炎症・ストレス・睡眠への影響とは

氷のように冷たい水を浴びるなんて、想像しただけで思わず身震いしてしまいますよね。ですが今、「冷水浴」が心や体に良い健康法として注目を集めています。氷水を張った浴槽に浸かる「アイスバス」や、シャワーを冷水に切り替える習慣など、世界中で実践される方が増えているのです。 実際、Amazonでは家庭用アイスバスの売上が、わずか1年で1000台未満から9万台以上に急増したというデータもあるそうです。 それでは、なぜ多くの方がわざわざ冷たさに身を委ねているのでしょうか?その背景には、「冷水浴でストレスが軽減される」「免疫力が向上する」「気分がすっきりする」といったさまざまな効果への期待があります。 とはいえ、これらの効果には科学的な裏付けがどの程度あるのでしょうか?今回は、最新の研究に基づいて、冷水浴の効果についてわかりやすくご紹介します。 注目を集める「冷水浴」とは? 「冷水浴(Cold Water Immersion, CWI)」とは、その名のとおり、体を冷たい水に浸す健康法です。一般的には、水温15℃以下(おおよそ10~15℃が目安)で行われ、シャワーでも浴槽でも、胸の高さまでしっかり冷水に触れることがポイントとされています。 冷水浴自体は、実は古くから世界各地で行われてきた習慣ですが、近年ではアスリートのコンディショニングやセルフケアの一環として、改めて注目を集めています。特にスポーツの分野では、激しい運動後にアイスバスを取り入れることで、筋肉の回復を早めたり、痛みを和らげたりする効果が期待され、広く活用されてきました。 ただし一方で、「運動直後の冷却が筋肥大や筋力の向上を妨げる可能性がある」とする研究結果もあり、実際の現場では評価が分かれているのが現状です。 「冷水浴」のメカニズムと話題の理由 では、私たち一般の人にとって、冷水浴にはどのような意味があるのでしょうか。専門家によると、冷水に浸かることで自律神経が一気に活性化し、心拍数や血圧、呼吸数が一時的に上昇するなど、身体に強い生理的な反応が起こるとされています。 つまり、体が「冷たい!」と驚き、それに対処しようとして交感神経が刺激されるのです。このとき、ストレスホルモンであるコルチゾールや、アドレナリンの一種であるノルアドレナリンの分泌も急増します。 まるで短時間の運動を行ったような状態になりますが、こうした一時的なストレス刺激が、むしろ体の適応力を高めるのではないかと考えられています。たとえば、心血管の健康や、脳の認知機能の向上につながる可能性があるという見方もあります。 さらに一般向けのメディアでは、「冷水浴で炎症が抑えられる」「代謝が上がる」「集中力や気分が良くなる」など、多くの効果が紹介されています。 このようにして冷水浴は一大ブームとなっていますが、果たしてその効果には科学的な裏付けがあるのでしょうか?その疑問に答えるべく、研究者たちが最新のデータをもとに検証を行いました。 最新レビューが明かす、冷水浴の身体と心への影響 こうした冷水浴ブームを背景に、2025年1月、学術誌『PLOS ONE』にて最新の系統的レビュー研究が発表されました。 Cain, T., Brinsley, J., Bennett, H., Nelson, M., Maher, C., & Singh, B. (2025). Effects of cold-water immersion on health and wellbeing: A systematic review and meta-analysis. PLOS ONE, 20(1): e0317615. journals.plos.org この研究では、冷水浴が健康な一般成人にどのような影響を与えるのかについて、科学的に検証されています。 オーストラリアの研究チームが実施した本レビューでは、過去の関連論文を網羅的に調査し、その中から厳密な条件を満たしたランダム化比較試験(RCT)11本を選定しました。対象は18歳以上の健康な成人で、トップアスリートや既往歴のある方は除外されています。 介入の方法も多様で、氷水を張った浴槽に浸かるものや、冷水シャワーを浴びる形式などが含まれており、水温は7〜15℃、実施時間は30秒〜2時間と、条件はさまざまでした。 最終的には3,177名分のデータをもとに、冷水浴の前後で身体や心理にどのような変化があったのかが分析されました。 冷たさにびっくり?体が見せる意外な反応 まず注目したいのは、炎症に関する意外な結果です。冷水浴と聞くと、「炎症を抑える」「体の熱を冷ます」といったイメージを持たれる方も多いかもしれません。しかしこの研究では、冷水浴の直後や1時間後に、体内でストレス応答に関連する一時的な生理的変化(炎症性サイトカインなどのマーカーの上昇)が見られました。 これは、体が冷たさを刺激と認識し、それに適応しようとする自然な防御反応と考えられています。これらの変化は一時的なもので、時間が経てば通常の状態に戻ることが確認されており、むしろこうした急激な刺激が体を鍛える「トリガー」となる可能性もあると言われています。 ただし、持病がある方にとっては、この一時的な炎症がリスクになる場合もあるため、冷水浴を始める際には無理をせず、体調に注意しながら行うことが大切です。 ストレスへの作用は時間差で──12時間後に見えた有意差 次に、ストレスへの効果について見てみましょう。冷水浴を日課にしている人の中には、「冷たいシャワーでストレスが吹き飛ぶ」と話す方も多いですが、今回の研究ではもう少し複雑な結果が示されました。 分析によると、冷水浴の直後や1時間後、24時間後、48時間後といったタイミングでは、ストレスレベルに明確な変化は見られませんでした。ところが、12時間後に測定されたデータでは、ストレスが有意に減少していたのです。 たとえば、朝に冷水シャワーを浴びると、その夜には気持ちが落ち着いている──そんな効果が期待できるかもしれません。 なぜ効果が遅れて出るのか、はっきりとはわかっていませんが、研究チームは体の適応反応に注目しています。冷水の刺激で交感神経(緊張モード)が活性化したあと、時間をかけて副交感神経(リラックスモード)が働きはじめ、心が落ち着いていくという流れがあるのではないかと考えられています。 このように冷水浴は、炎症やストレスに時間差で作用するというユニークな特徴を持っており、ストレス対策として取り入れる場合はタイミングを工夫することもポイントになりそうです。 図:冷水浴後のストレスへの効果を示すメタ分析の結果(Forest Plot)グラフの黒い菱形マークが効果量の合計を示しており、縦のゼロ線より左側にあるとストレス低下の効果を意味する。このレビューでは、冷水浴12時間後のポイントで黒いマークが大きく左に偏しており、ストレスが有意に減少したことを表している。一方、0時間後(直後)や1時間後、24時間後、48時間後のマークはゼロ線付近に位置し、これらの時点では有意な変化がなかったことが読み取れる。 病欠日数が29%減少──冷水習慣の長期的な影響とは 「冷水を浴びれば風邪をひかない」といった話を耳にしたことがある方もいらっしゃるかもしれません。では、科学的にはどうなのでしょうか。 今回のレビューによると、冷水浴の直後や1時間後における免疫指標(白血球の数や免疫細胞の働きなど)には、明確な変化は確認されませんでした。つまり、冷たいシャワーで即座に免疫力が高まる、という証拠はまだ不十分のようです。 一方で、長期的な効果には興味深いデータもあります。オランダで行われた大規模な研究では、冷水シャワーを30日間続けたグループで、病気による欠勤日数が29%減少したという結果が出ています。 これは、冷水浴が直接的に風邪の罹患回数を減らすというよりも、症状の重症度を軽減したり、病気からの回復を早めたりするなど、体の不調に対する耐性を高める可能性を示唆しています。この効果には、心理的な要因や、体がストレスに適応する能力が高まることなどが複合的に関わっていると考えられます。 すぐに免疫力が劇的に上がるわけではありませんが、冷水シャワーを日常的に取り入れることで、体調管理に役立つ可能性はあるかもしれません。生活リズムを整える効果も含め、習慣として取り入れてみる価値はありそうです。 冷水でよく眠れる?思わぬリラックス効果 冷水浴は、睡眠の質にも影響を与えるのでしょうか。寝る前にお風呂で温まるとよく眠れると言われますが、逆に冷たい水ではどうなのか気になりますよね。 今回のレビューでは、睡眠に関するデータはまだ限られているものの、肯定的な結果がいくつか報告されています。たとえば、暑い環境でのトレーニング後に冷水浴(15分)を行った若い男性たちのグループでは、自己申告による睡眠の質が有意に改善していたことが確認されました。 研究チームは、冷水によるクールダウン効果が睡眠に良い影響を与えた可能性に言及しています。ただし、この結果は特定の条件(若い男性・運動後)に限られているため、誰にでも当てはまるとは言い切れない点には注意が必要です。 それでも、朝の冷水浴で日中の覚醒度を高めることで、夜の自然な眠りをサポートするなど、生活リズムを整える効果は期待できるかもしれません。 気分・集中力への影響は限定的──現時点の科学的評価 冷水浴をすると「気分が上がる」「頭が冴える」と感じる方もいらっしゃいますが、今回のレビューでは科学的な裏付けはまだ十分ではないことが示されました。 たとえば、20代男性を対象とした小規模な研究では、「活発さ」や「エネルギー感」「疲労感」などを比較しましたが、冷水浴の有無による明確な差は確認されませんでした。不安感や抑うつ感といったメンタルヘルスの改善についても、高品質な証拠は得られていないと報告されています。 一方で、『冷水に入ると気分がスッキリする』という声が多く聞かれるのも事実です。研究者たちは、このような主観的な感覚は、冷水浴が行われる環境やシチュエーション、たとえば海辺での体験や他者との交流など、様々な要因によって増幅される可能性があると指摘しています。 今回のレビューは、そうした外的要因を排除した厳密な条件下での『冷水そのもの』の影響を検証したため、現時点では気分や集中力に対する直接的な科学的根拠は限定的と結論付けられています。しかし、主観的な体験の重要性も認識されており、今後の研究でより多角的な視点からの検証が期待されます。 まとめ:冷水浴は脳と体に「効く」のか? 今回のレビューによって、冷水浴に関する効果の「はっきりしてきた部分」と「まだ根拠が乏しい部分」が見えてきました。 たとえば、炎症は一時的に増加し、ストレスは12時間後に明確に低下することが確認されています。免疫については即効性は見られないものの、継続することで病欠が減る可能性が示唆されました。睡眠や生活の質においても、一部で改善が見られました。 一方で、気分や集中力の即時的な向上については、今のところ信頼性の高いデータが不足しており、過度な期待は避けたほうがよさそうです。 冷水浴の特徴として注目したいのは、効果が時間をかけて現れる点です。たとえば、朝に冷水を浴びることで、夜にかけて気分が落ち着くといった、自律神経を整える習慣として活用できる可能性があります。 現時点では、研究の数や対象に偏りがあり、長期的な影響や安全性については今後の検証が求められます。それでも、冷たい水に入るというシンプルな行為が、体や心に広く作用することが少しずつ明らかになってきました。 まずは無理のない範囲で取り入れながら、自分に合うかどうかを試してみることが大切です。 今回紹介した論文📖Cain, T., Brinsley, J., Bennett, H., Nelson, M., Maher, C., & Singh, B. (2025). Effects of cold-water immersion on health and wellbeing: A systematic review and meta-analysis. PLOS ONE, 20(1): e0317615. journals.plos.org

ADHDの子どもに効く?シリアスゲームによるデジタル治療(DTx)の最新研究

子どもがゲームばかりしていると、つい心配になってしまいますよね。しかし、もしそのゲーム自体が「治療」として機能するとしたらどうでしょうか? 最近では、デジタル治療(DTx)と呼ばれる、ソフトウェアを使った新しい医療のかたちが注目を集めています。たとえば2020年、アメリカで世界初の処方用ゲーム治療として『EndeavorRx』というADHD児童向けのビデオゲームがFDA(食品医薬品局)によって承認されました。 さらに2023年にはISO(国際標準化機構)がデジタル治療を「エビデンスに基づくソフトウェアによる介入」と正式に定義するなど、DTxは医療業界で急速に存在感を増しています。 注目が集まる「ゲーム型アプローチ」 そうした流れの中で、注目を集めているのがADHD(注意欠如・多動症)という発達障害への応用です。ADHDは主に子どもの頃に現れやすく、注意力の散漫さや落ち着きのなさ(多動・衝動性)といった症状が、日常生活に影響を及ぼします。 薬による治療が一般的なADHD支援ですが、副作用や長期間の使用に不安を感じる保護者も少なくありません。そこで今、薬に頼らない新しいアプローチとして注目されているのが、「シリアスゲーム」と呼ばれるタイプのゲームです。これは遊びを目的とするのではなく、治療や訓練といった明確な目的をもって設計されたゲームを指します。 実際、音楽や運動の要素をゲームに組み合わせることで、ADHD症状を改善する試みも成果を上げています。ゲームは子どもにとって身近で魅力的なため、楽しみながら治療的効果を得られる一石二鳥のアプローチになるかもしれません。 35本の研究を分析:ADHD児童にゲームがもたらす影響とは こうした流れを受けて、2025年5月には医学ジャーナル『JMIR Serious Games』に、ADHDの子どもに対するシリアスゲームの効果を総合的に検証した新たな系統的レビュー研究が発表されました。 このレビューでは、2010年から2024年初頭までに発表された論文の中から、厳格な選定基準に基づいて35件を抽出し、合計1,408人の参加者データをもとに分析を行っています。 対象は主に6~18歳のADHD傾向の子ども達で、報告されている限りでは参加者の約3/4が男児(男女比660:228)でした。レビュー対象の論文は医学・心理学からコンピュータサイエンス、教育工学、デザイン分野まで多岐にわたり、使われたゲームも多彩です。 たとえば、35件の研究のうち約4割(37%)では、体の動きを使って操作するタイプのゲームが採用されていました。これは、Microsoft社が開発したKinectセンサーのような、身体の動きをカメラで読み取る装置を活用したもので、画面の前でジャンプしたり手を動かしたりすることでゲームが進行します。さらに、VR(仮想現実)技術を取り入れたゲームも複数存在し、子どもがより没入しながらトレーニングに取り組めるよう工夫されていました。 ゲームのタイプとしては、1人で取り組む「シングルプレイヤー型」が全体の約9割(89%)と最も多く見られましたが、中には協力プレイや対戦要素を取り入れたゲームもあり、社会性やコミュニケーション力の向上を目指した設計も確認されました。 シリアスゲームが目指す「伸ばしたい力」とは? 本レビュー論文では、各研究が子どもたちのどのような力を伸ばすことを目的にゲームを使っていたか、そして実際にどのような効果が得られたかを分析しています。また、ゲームに対する子どもたちの反応や楽しさ、受け入れられ方についても注目されました。 その結果、最も多かったのは注意力の向上を目指した研究で、全体の80%を占めていました。続いて、多動性・衝動性の抑制(29%)、考える力や記憶力といった実行機能(43%)、体の動きに関わる運動技能(20%)、友達との関わり方などの社会的スキル(17%)を対象とした研究が見られました。 「楽しい」だけじゃない、ゲームがもたらした具体的な効果 ADHDの子どもにとって、どんな力がゲームによって実際に変化したのか。ここでは、レビューで特に注目された主な効果と子どもたちの反応を項目ごとに見ていきます。 注意力 注意力は、ADHDの症状の中でも特に重要とされ、対象となった35件の研究のうち8割が注意力の向上を目的としており、最も多く取り上げられていた項目でした。 ゲームを使ったトレーニングの後には、注意の持続時間や集中力が向上したとする報告が多数見られました。効果の測定には、子どもの行動特性を評価するConners3(コナーズ評価尺度)や、認知的な注意力をチェックするBIA(Behavioral Inattention Assessment)といった心理検査、課題実行テストなどが用いられました。また、教師や保護者による観察も評価に加えられ、ゲームによる介入は注意力の改善に有効であると結論づけられています。 多動性・衝動性 多動性や衝動性に注目した研究は全体の約3割とやや少なめでしたが、ゲームを通じて衝動をコントロールする力を鍛える工夫が数多く見られました。 たとえば、「すぐにボタンを押したくなるような刺激が出ても、それを我慢できたら得点がもらえる」といった「あえて待つ」ことを促すルールを取り入れたゲームでは、実際に子どもたちの落ち着きのなさが軽減されたという報告があります。 こうした逆転のルールによって、衝動を抑える力=抑制力を育てることができ、多くの研究で改善が確認されました。なお、一部の研究では有意な変化が見られなかったケースもあり、効果のばらつきについては今後の検証が求められています。 社会的スキル 対人関係のスキル(社会性)をテーマにした研究は全体の17%と少なめでしたが、協力プレイや会話を取り入れたゲームによって、子どもたちの社交性に良い変化が見られたという報告が複数ありました。 たとえば、友達と一緒に協力してミッションを進めるゲームや、画面上のキャラクターと視線を合わせる練習(アイコンタクト)ができるゲームなどが使われました。こうした体験を通じて、コミュニケーションの取り方や他人との関わり方が改善したという結果が多くの研究で示されています。 運動技能 運動能力への効果を調べた研究は全体の20%にとどまっており、その結果については慎重な解釈が求められます。 たとえば、Kinectのようなセンサーを使って体全体を動かすタイプのゲームでは、手と目をうまく連動させる力(ハンドアイコーディネーション)の向上が確認されました。 しかし、走る・跳ぶといった全身の運動能力そのものに対するはっきりした効果は、多くの研究で示されていませんでした。 研究によって評価方法やゲーム内容が大きく異なることもあり、運動スキルへの影響については、今後さらに丁寧な検証が必要とされています。 実行機能 実行機能とは、たとえば「計画を立てて行動する力」「記憶を一時的に保持して使う力(ワーキングメモリ)」「状況に応じて柔軟に考え方を変える力(認知の柔軟性)」など、思考や行動をコントロールするための力のことを指します。 この分野に焦点を当てた研究は全体の43%にのぼり、ADHDの子どもにとって重要な課題のひとつとされています。 多くのゲームでは、ミニゲームを繰り返しプレイすることで、ワーキングメモリの強化や問題解決力の向上を目指していました。 たとえば、答え方をその都度変えなければならない認知の柔軟性を求められるパズルや、すばやく反応しながらも「あえて反応しない」選択を求めるGo/No-Go課題などがゲーム化され、実際に子どもたちの認知面での成績向上が報告されています。 ゲームへの反応・楽しさ 今回のレビューでは、子どもたちがシリアスゲームをどのように受け止めているかにも注目されました。その結果、89%の研究でゲームへの反応は肯定的だったと報告されています。 インタビューやアンケートでは、「またやりたい!」「楽しかった!」といった声が多く、子どもたちが楽しみながらリハビリに取り組んでいる様子がうかがえました。 一方で、ゲームに慣れてくると「簡単すぎる」と感じて興味を失ってしまうという指摘もあります。実際、難易度を子どもの上達に合わせて調整する仕組みを取り入れた研究は全体の45%にのぼり、飽きさせない工夫が成果につながっていることが分かりました。 治療のハードルを下げる、やさしいテクノロジー 今回のレビューで分析された35本の研究は、シリアスゲームがADHDの子どもたちに与える治療的な可能性をしっかりと裏付ける内容となっています。中でも、注意力の改善においては特に一貫した効果が見られ、これは従来のリハビリ手法に対して、有効な補完策あるいは薬に代わる新しい選択肢になり得ることが示されています。 そして何より、ゲームならではの「楽しいから続けたい」という気持ちが、子どもたちに自然なかたちで治療を継続させる力になっている点は大きな特長です。薬を嫌がる子でも、「ゲームならやってみたい」と思えるかもしれません。これは、日々悩みを抱える保護者にとっても、希望の持てるアプローチと言えるのではないでしょうか。 遊びと治療の融合という一見ギャップのある組み合わせですが、今回のレビューは読者に、そんな意外性の中にある大きな可能性を私たちに示してくれました。 子どもたちが笑顔で楽しみながら、自分の特性と向き合っていく。 シリアスゲームは、そんな新しいADHDケアのかたちを切り拓く存在として、今後ますます注目されていきそうです。 今回紹介した論文📖 Lin, J., & Chang, W. R. (2025). Effectiveness of serious games as digital therapeutics for enhancing the abilities of children with attention-deficit/hyperactivity disorder (ADHD): Systematic literature review. JMIR Serious Games, 13, e60937.

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