音楽には、ただ聴くだけで心が落ち着いたり、懐かしい記憶がよみがえったりする不思議な力があります。そんな音楽の力を活かして、医療や福祉、教育などの現場で広がっているのが「音楽療法」です。リラックス効果や記憶の刺激、リハビリとの相乗効果まで、その可能性は多岐にわたります。
この記事では、音楽療法の基本的な考え方から、家庭や施設で取り入れる方法、最新技術を活用した「うたメモリー」の紹介までを、わかりやすく丁寧に解説します。誰もが身近にある音楽を、少しだけ特別なかたちで暮らしに活かしてみませんか。
音楽療法とは?

音楽療法とは、音楽の持つ力を活用して、心身の健康を支援する療法です。医療や福祉の現場はもちろん、近年では教育や在宅ケアの分野にも広がりを見せています。
この章では、音楽療法の本質をわかりやすく紹介しつつ、なぜ音楽が人に作用するのかという科学的な視点も交えて解説していきます。
音楽療法で行われる主な活動とは?
音楽療法では、対象者の状態や目的に合わせて、音楽を「聴いたり」「歌ったり」「演奏したり」する活動を通じて心と体のサポートを行います。単に音楽を楽しむのではなく、その人に合った曲や方法を選び、狙った効果を引き出すことを目的に実施されるのが特徴です。
方法としては、大きく2つに分けられます。ひとつは、好きな音楽を聴いて気持ちを落ち着かせるなどの「受動的な音楽療法」。もうひとつは、歌を歌ったり、楽器を鳴らしたりすることで自己表現を促す「能動的な音楽療法」です。
また、個別で行うこともあれば、複数人でグループ形式にすることもあります。グループセッションでは、他者との関わりが生まれるため、コミュニケーション能力や社会性の向上も期待されます。
音楽が気持ちや記憶に働きかけるしくみ
音楽が人の心や体に影響を与えるのは、音楽を聴くことで、私たちの脳が感情や記憶に関係する部分を活発に働かせるからです。
たとえば、リラックスできる音楽を聴いたとき、なんだかホッとした気持ちになることはありませんか? これは、脳の中で「ドーパミン」や「セロトニン」といった、気分を安定させる物質が分泌されることによって起こる現象です。その結果、イライラや不安が落ち着き、心が軽くなっていくのです。
また、音楽は記憶とも深くつながっています。懐かしい曲を聴いて、昔の出来事や人の顔を思い出した経験がある方も多いのではないでしょうか。これは、音楽が「思い出のカギ」として働き、記憶を引き出してくれるためです。
さらに、音楽は言葉を使わなくても感情を伝えられる「非言語コミュニケーション」の手段でもあります。言葉ではうまく気持ちを表現できないときでも、音楽を通して安心感を得たり、他人と気持ちを共有したりすることができるのです。
音楽療法がもたらす主な効果とは

音楽療法は、単に「音楽を聴いて癒される」という感覚的なものではありません。近年の研究や臨床の現場では、音楽療法が心・脳・身体の幅広い領域にプラスの影響を与えることが明らかになってきています。
この章では、音楽療法によって得られる主な効果について、詳しく見ていきましょう。
感情を落ち着かせ、ストレスをやわらげる
音楽には、人の感情に直接働きかける力があります。ゆったりとしたテンポや心地よいメロディーの音楽を聴くと、副交感神経が優位になり、心拍や血圧が落ち着くという生理的変化が起こります。その結果、緊張や不安がやわらぎ、ストレス状態から抜け出しやすくなります。
特に、病院での検査前や手術前の患者に音楽を聴かせると、不安感が軽減されるという事例は多く報告されています。また、うつ病や不安障害を抱える方に対する音楽療法でも、感情の浮き沈みが少なくなり、情緒の安定に寄与するとされています。
参考:日本臨床統合医療学会HP
記憶や認知機能を刺激する
音楽は、記憶を司る脳の部位「海馬」や、感情に関わる「扁桃体」と深く結びついています。特に、過去に聴いていた音楽や思い出の曲は、過去の出来事や感情を自然と引き出す力を持っています。
認知症の方に昔流行った歌謡曲を聴いてもらうことで、記憶がよみがえり、会話がスムーズになったり、表情が豊かになったりする例が実際に多く報告されています(1)。また、音楽に合わせて簡単なリズム運動を行うと、脳への刺激がさらに高まり、集中力や判断力の改善にもつながると考えられています。
(1)The Guardian. (2024, July 27). ‘It brings you back’: the suburban choir helping people living with dementia reconnect. Retrieved from
身体機能の回復やリハビリとの相乗効果
音楽のリズムには、身体を自然に動かしたくなる力があります。これはリハビリの分野でも有効で、歩行訓練やストレッチなどに音楽を取り入れることで、身体の動きがスムーズになり、運動の継続もしやすくなる効果が期待されます。
たとえば、パーキンソン病の方にテンポのある音楽を聴かせながら歩いてもらうと、歩幅やテンポが安定し、歩行が改善されたという研究があります(1)。また、高齢者施設では、音楽に合わせて身体を動かすプログラムが、筋力維持や転倒予防の観点でも注目されています。
(1)Zhuolin Wu, Lingyu Kong, Qiuxia Zhang(2022)「Research Progress of Music Therapy on Gait Intervention in Patients with Parkinson’s Disease」International Journal of Environmental Research and Public Health, 19(15), 9568.
音楽療法はどんな場面で活用できる?

音楽療法は、特定の疾患や年齢層に限らず、さまざまな人・場面に柔軟に対応できるのが大きな強みです。医療や福祉の分野ではもちろん、教育現場や地域活動でも積極的に導入が進んでいます。
それぞれの場面で、音楽がどのように機能し、人を支えているのかを見ていきましょう。
認知症ケアでの音楽療法の活用
音楽療法は、認知症の進行を緩やかにし、症状をやわらげるための手段として注目されています。とくに、思い出の曲を聴きながら昔の出来事を語り合う「回想法」は、記憶を呼び覚まし、感情を安定させる効果があるとされています。
また、認知症の方が示す「BPSD(暴言・興奮・抑うつなどの行動・心理症状)」に対しても、音楽によって気持ちが和らぎ、穏やかな状態が維持できるという実践例が数多く報告されています(1)。音楽は、「その人らしさ」を取り戻すための大切なきっかけにもなります。
(1)Ueda, T., Suzukamo, Y., Sato, M., & Izumi, S. (2013). Effects of music therapy on behavioral and psychological symptoms of dementia: A systematic review and meta-analysis. Ageing Research Reviews, 12(2), 628–641.
高齢者施設・デイサービスでのレクリエーション
高齢者施設やデイサービスでは、音楽を使ったレクリエーションが広く行われています。季節の歌や童謡、昔懐かしい歌謡曲を一緒に歌うことで、参加者同士の交流が生まれ、社会的孤立の予防にもつながります。
また、歌う・聴く・手を叩くなどのリズム活動は、脳だけでなく身体にも適度な刺激を与えるため、生活の質(QOL)の向上に貢献するとされています。音楽を介した活動は、笑顔や会話を自然と引き出す力を持っています。
発達障害・自閉スペクトラム症(ASD)への支援
発達障害や自閉スペクトラム症(ASD)のある子どもたちは、言葉によるコミュニケーションが難しかったり、感情をうまく表現できなかったりすることがあります。そんなとき、音楽は言葉に頼らず気持ちを伝えたり、自分らしさを表現したりできる手段として有効です。
たとえば、リズム遊びや手拍子、歌を通じて、他の子どもや支援者と自然に関わる機会が生まれ、社会性や協調性を育むサポートになります。
また、毎日の活動に決まった音楽を取り入れることで、安心感を得やすくなるという利点もあります。たとえば「お片付けの時間に流す音楽」や「帰りの時間に聴く曲」を決めておくと、子どもが状況の切り替えをスムーズに受け入れやすくなります。これは「音楽による見通しの提示」とも言え、生活にリズムや予測可能性を持たせる支援として活用されています。
精神疾患やうつ状態のサポート
うつ病や不安障害など、心の病を抱える人にとって、音楽は自分の感情に気づくきっかけになったり、気分をやさしく持ち上げてくれる存在になったりします。
音楽療法では、言葉にしにくい感情を音で表すことで、心理的な解放感を得られたり、自己理解が深まるといった効果が期待されます。
また、音楽療法士の存在も重要です。セラピストがそばで反応を丁寧に受け取りながら進行することで、安全で安心できる環境の中で、自分の気持ちを少しずつ整理していくことができるとされています。
リハビリや身体トレーニングとの併用
音楽のリズムには、体を動かすタイミングやテンポを整える作用があります。これを活かして、理学療法や運動療法と組み合わせることで、より効果的なリハビリが可能になります。
たとえば、歩行訓練では一定のテンポの音楽に合わせて足を出すことで、バランス感覚が安定しやすくなります。さらに、楽器を使った手の運動や、リズムに合わせた関節の動きは、楽しみながら継続できるリハビリ手法としても注目されています。
音楽療法はどう使い分ける?

音楽療法には、音楽を「どのように活用するか」によってさまざまなアプローチが存在します。この章では、音楽療法の代表的な手法とその特徴をわかりやすく解説します。
音楽を聴いて癒す「受動的音楽療法」
受動的音楽療法とは、対象者が音楽を聴くことで心身のリラックスや感情の安定を図る方法です。医療や介護の現場では、検査前の不安を和らげたり、終末期ケアで安心感をもたらしたりするために利用されます。
選曲は、対象者の好みや過去の体験に基づいて行われることが多く、特に高齢者においては懐かしい音楽が記憶や感情を呼び起こす「回想法」の一環として使われることもあります。
この方法は、体力的・精神的な負担が少ないため、誰でも無理なく参加できる柔軟なアプローチとして幅広く取り入れられています。
演奏や歌で表現する「能動的音楽療法」
能動的音楽療法では、対象者が自ら歌ったり、楽器を鳴らしたりして音楽に積極的に関わることで、表現力や自己肯定感を高めることを目的とします。
たとえば、発達障害のある子どもにとっては、リズム遊びや手拍子を通じて他者とのやり取りを自然に学ぶ機会になります。また、うつ症状のある方が歌を通じて自分の気持ちを表現することで、心の内面にある感情を言葉以外の方法で外に出すことが可能になります。
音楽を「自分のもの」として扱う体験は、感情の整理や他者とのつながりの構築にも役立つとされ、より積極的な心理的変化を引き出すことができます。
個別とグループ、それぞれのセッションの特徴
音楽療法は、個別セッション(1対1)とグループセッション(複数人)の2つの形式で行われます。どちらを選ぶかは、対象者の目的や状態、環境によって異なります。
個別セッションでは、より深くその人のニーズに合わせた対応が可能です。例えば、重度の障害がある場合や、強い不安を感じている場合には、一対一の落ち着いた環境が安心感を提供します。
一方、グループセッションでは、音楽を通じた他者との交流や協調性の促進が大きな目的となります。歌や合奏を通じて「一緒に音をつくる」体験が、社会性や自己表現力の向上に結びつくとされています。
音楽療法の手法とアプローチの違い | |
手法の種類 | 内容 |
受動的療法 | ▶ 音楽を「聴く」ことでリラックスや感情の安定を図る ▶ 好みの曲、懐かしい曲などを使う ▶ 精神的・身体的な負担が少なく誰でも実践しやすい |
能動的療法 | ▶ 歌を歌う、楽器を演奏するなど、音楽に参加する ▶ 自己表現、感情解放、他者とのやり取りの促進に効果的 ▶ 発達支援や精神疾患の支援などに活用される |
セッション形式 | |
個別セッション | ▶ 1対1で実施。個別の課題や感情に丁寧に向き合える ▶ 不安が強い、重度障害など個別支援が必要な場合に適す |
グループセッション | ▶ 複数人で歌や合奏を楽しみながら、交流や協調性を育む ▶ 高齢者施設やデイサービス、発達支援などに多く活用 |
家庭や施設での音楽療法の始め方

音楽療法というと専門的な知識が必要と思われがちですが、家庭や高齢者施設でも、ちょっとした工夫で音楽を取り入れることは十分に可能です。ここでは、誰でも手軽に取り組める方法と、効果的な音楽の選び方、さらに導入時に注意すべきポイントを紹介します。
身近な道具でできる!簡単音楽療法の工夫
家庭や施設で始めるなら、まずはCDプレーヤーやスマートフォン、Bluetoothスピーカーなど、身近な再生機器を活用するのがおすすめです。
例えば、朝の支度の時間に明るい音楽を流す、入浴前にリラックスできる音楽をかけるといった、生活のリズムに音楽を組み込むだけでも、気分が整いやすくなります。高齢者の場合は、歌詞カードを用意して一緒に歌うことで、発声や口の運動、回想のきっかけにもなります。
近年注目されているのが、VIE株式会社と東和薬品、NTTデータ経営研究所が共同開発した「うたメモリー」という、懐かしい音楽の力で記憶を呼び覚ますことを目的としたプロダクトです。特徴は、イヤホン型の脳波計で音楽を聴いたときの“懐かしい”という感情の反応を読み取り、その人に合った音楽をAIが選んでプレイリストにしてくれる点です。
たとえば、昔よく聴いていた曲を耳にしたときに、脳が「懐かしい」と反応すると、その反応をもとにAIが似たような曲を集めて再生してくれます。まるでその人だけの“思い出のサウンドトラック”が自動で作られるイメージです。
さらに、思い出した記憶を記録できるノート(メモリートラベルブック)もついていて、家族や仲間と一緒に思い出話をするきっかけ作りにもなります。
製品に関するお問い合わせはこちら:
失敗しない選曲のコツ(年代・ジャンル別)
音楽の効果を引き出すには、「その人に合った音楽を選ぶこと」が重要です。
高齢者の場合は、10〜20代のころに聴いていた曲が最も記憶を刺激しやすいとされており(1)、昭和30〜50年代の歌謡曲や童謡、民謡がよく使われます。
ただし、選曲は個人の趣味や体験によって大きく異なるため、できるだけ本人や家族と相談しながら、「懐かしい」「好きだった」と感じる曲を選ぶことがポイントです。洋楽や演歌、テレビ主題歌など、ジャンルも多様に対応するとよいでしょう。
(1)Jakubowski, K., & Ghosh, A. (2019). Music-evoked autobiographical memories in everyday life. Psychology of Music. Advance online publication.
専門家との連携や注意点
家庭で音楽療法を取り入れる際には、安全性や本人の反応をしっかり観察することが大切です。特に認知症の方などは、曲によっては過去の辛い記憶を呼び起こす場合もあるため、反応には十分な配慮が必要です。
不安がある場合や、より本格的な支援を希望する場合は、日本音楽療法学会の認定音楽療法士や、地域の専門機関に相談するのも良い選択です。専門家の視点を取り入れることで、安全で効果的な音楽の活用が実現しやすくなります。
音楽療法で毎日にやさしさと希望を
音楽療法は、音楽の力で心と体に寄り添い、記憶や感情をやさしく呼び覚ます手法です。特別な知識がなくても、家庭や施設でできることから始められ、誰にとっても身近で実践しやすいアプローチといえるでしょう。
科学的な根拠に基づいた効果に加え、テクノロジーの進化により「うたメモリー」のような新しい支援ツールも登場しています。
音楽には、人と人をつなぎ、人生の大切な瞬間を思い出させてくれる力があります。毎日の暮らしに音楽療法を取り入れることで、少しだけ優しく、前向きな時間が生まれるかもしれません。