ブレインテック——脳科学とテクノロジーが交差するこの領域は、近年、認知症の予防や精神疾患の治療といった医療応用に加えて、人間の認知機能や感覚の拡張を目指す技術としても、注目を集めています。
この急速な発展の裏には、研究者の飽くなき探究心だけでなく、もう一つの重要な推進力があります。それが「政策」と「資金」です。科学技術の進歩は、それを支える制度と財源なしには持続的な発展が難しく、特にブレインテックのような新興分野では、規制、倫理、産業構造との関係が複雑に絡み合い、民間単独では市場形成までの道のりが険しいのが現実です。そのため、国家戦略や公的資金の投入は、ブレインテックの発展において極めて重要な位置を占めています。
実際に、日本政府は「統合イノベーション戦略」や「ムーンショット型研究開発制度」のもとで、脳科学分野への本格的な投資を開始しています。AMEDやNEDOといった機関が研究費を供給し、地方自治体もスタートアップ支援や実証フィールドの提供に乗り出すなど、支援体制は多層的に広がっています。海外に目を向ければ、米国のBRAIN Initiativeや欧州のHorizon Europeといった国家的取り組みが、脳科学の産業化をけん引しています。
本記事では、こうした国内外の政策・支援制度を整理し、それらがどのようにブレインテックの市場形成に寄与しているのかを紐解いていきます。
参考:経済産業省「行政と連携実績のあるスタートアップ100選 スタートアップとの連携で社会課題の解決を」
国内編|なぜ日本は脳科学に投資するのか?
ブレインテックや脳科学関連の技術が花開くには、長期的な研究と制度的な後押しが必要不可欠です。特に日本では、少子高齢化や認知症の急増、精神疾患の増加など、脳に関わる医療・福祉の課題が社会課題と直結しています。この構造的背景こそが、日本が国家戦略として脳科学への投資を強化してきた最大の理由です。
実際、日本ではこれらを支える公的支援体制が段階的に整備されてきました。2008年に文部科学省から始まった「脳科学研究戦略推進プログラム」以降、脳科学は日本の科学技術基本計画において、常に重点領域として扱われてきました。そして現在、その流れは「統合イノベーション戦略」や「ムーンショット型研究開発制度」に引き継がれています。
また、研究資金を実際に分配・執行する実働部隊として、AMED(日本医療研究開発機構)やNEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)といった機関が存在します。AMEDでは「脳とこころの研究推進プログラム」の名のもと、神経・精神疾患の解明に向けた大型研究が支援されてます。
一方、NEDOでは近年、AI・センシング技術と連携したブレインテック領域への応用支援が進んでます。NEDOの支援は、単なる研究資金提供にとどまらず、実用化や社会実装を意識した企業連携型の事業開発を特徴としており、出口戦略型の支援で、スタートアップから大企業まで幅広いプレイヤーが参画しています。
このように、日本における脳科学支援は、基礎研究・産業応用・社会実装を包括的に支える多層的構造を形成しつつあります。一方で、脳科学領域での実際の事業化・マネタイズにおいては、まだ制度的・倫理的課題が残るのも事実です。それでも、日本政府がなぜ脳科学に投資するのか——その背景には、「超高齢社会」におけるQOL(生活の質)の向上、医療費の抑制、新産業創出という国家的課題があるのです。
海外編|米・欧・アジアの支援体制

ブレインテックが単なる技術トレンドではなく、国策レベルの戦略領域として位置づけられているのは、日本だけではありません。とりわけ、アメリカ・EU・イスラエル・シンガポールなどの国々では、脳科学や神経技術を未来社会の基盤技術と捉え、明確な政策方針と大規模な資金投入によって、支援の体系化が進められています。
こうした政策の特徴は、基礎研究から臨床応用・産業化までの“ステージ連携”を明確に設計している点にあります。ここでは、代表的な海外の国家的取り組みを紹介していきます。
米国:BRAIN Initiativeに見る長期的な基礎投資モデル
2013年、オバマ政権下で始まったBRAIN Initiative(Brain Research through Advancing Innovative Neurotechnologies)は、脳の機能的マップを作成し、神経疾患の治療法開発に活かすことを目的とした国家プロジェクトです。
主導機関は米国国立衛生研究所(NIH)で、当初の10年間で数十億ドル規模の投資が行われ、2023年には「BRAIN Initiative 2.0」へと移行しました。このフェーズでは、データ共有・倫理ガイドライン・標準化の整備も含めた、脳科学インフラの構築にまでスコープが拡張されています。
特筆すべきは、BMI、神経刺激、イメージング技術といった神経工学系技術の研究が豊富に支援対象に含まれている点です。さらに米国国防高等研究計画局(DARPA)も、戦略的にブレインテック領域に投資を続けており、BMIを用いた義手制御や記憶支援技術の開発(Restoring Active Memoryプログラム)が実用段階に入っています。
欧州:EBRAINSと倫理中心の支援設計
EUでは、かつての大規模プロジェクト「Human Brain Project(HBP)」が2023年に終了しましたが、その成果をもとにEBRAINSという研究基盤インフラが継承されています。
EBRAINSは、神経データの共有プラットフォームであり、ニューロシミュレーションやAI研究との統合を積極的に進める、欧州の脳科学共同体の中核を担っています。
現在のEUにおける脳科学支援は、「Horizon Europe」という研究・イノベーション枠組み(2021–2027)の中で継続されています。ここでは、神経変性疾患の診断・治療、個別化医療、脳とAIの融合といった領域が主要テーマとして採択されています。
特徴的なのは、研究資金の支給にあたり、倫理的・法的・社会的課題(ELSI)を重視している点です。AIやBMIの応用に対しては、国際ガイドラインの整備と並行し、研究段階からの倫理監査が義務化されており、社会的受容性(Social Acceptability)を前提とした支援体制となっています。
イスラエル・シンガポール:国家規模のR&D支援
イスラエルでは、政府主導でブレインテックを含むヘルステック分野への集中的投資が行われており、スタートアップも多数生まれています。特に軍事技術との転用性が高い領域では、脳波ベースの認証技術や、戦闘中の判断力や注意力の変化を測定するシステムの開発が進んでいます。
また、PTSDへの応用も進んでおり、ニューロフィードバックを活用した治療機器が米FDAの承認を受けるなど、臨床現場への実装も始まっています。
一方、シンガポールでは、政府研究機関A*STAR(Agency for Science, Technology and Research)が中核となり、脳とAI、ニューロエンジニアリング、精神疾患のバイオマーカー探索などの領域で研究助成を行っています。
シンガポールは都市国家でありながら、医療機関、大学、民間企業が密接に連携するイノベーション・クラスター形成に成功しているのが特徴です。ASTARはシンガポール国立大学(NUS)や南洋理工大学(NTU)といった主要大学と共同研究を進め、国立神経科学研究所(NNI)のような医療機関とも協力して、研究成果の臨床応用を加速させています。
制度が技術を育てる時代へ

ブレインテックの社会実装には、長期的な研究支援、倫理的なガイドライン、産業化のための制度整備など、技術を超えた多層的な基盤が必要不可欠です。
本記事で見てきたように、日本ではムーンショット型研究開発制度やAMED、自治体レベルのスタートアップ支援など、脳科学やブレインテックを支える政策が段階的に整備されつつあります。一方、海外に目を向けると、米国のBRAIN InitiativeやEUのEBRAINSのように、研究から社会実装、倫理的制度設計までを網羅する包括的な枠組みがすでに機能していることがわかります。
こうした支援体制の根底にあるのは、「制度はインフラである」という認識なのではないでしょうか。道路や電力と同じように、科学技術の進展にも安定した下支えが必要であり、それがなければ個別の技術がどれほど優れていても、社会に根を張ることは難しい状況です。
今後、ブレインテックが医療、教育、産業の各分野に広がっていくなかで問われるのは、単に技術を開発できるかではなく、その技術を受け止める社会的・制度的な器を整備できるかという点にあるでしょう。研究資金の出し方、規制の設計、企業との接続、実証の場の提供──そのすべてが、ブレインテックの未来を決める鍵になります。