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腸は「第2の脳」:腸内環境とメンタルヘルスの意外な関係

ストレスでお腹の調子が悪くなる、なんとなく気分が晴れない──こうした「こころ」と「お腹」のつながりは、近年「脳と腸の関係」として科学的にも注目されています。腸は単なる消化器官ではなく、神経・ホルモン・免疫を通じて脳と情報をやり取りしており、「第2の脳」とも呼ばれるほどです。 この記事では、腸と脳がどのように影響し合っているのかを最新研究とともに解説し、日々の生活で取り入れられる具体的なケア方法まで詳しく紹介します。腸のことを知れば、心の健康へのアプローチも変わってくるかもしれません。 腸は「第2の脳」と言われる理由 人の腸には、「第2の脳」と呼ばれる特別な神経のしくみがあります。これは腸管神経系(ENS)といい、食べ物を運ぶための動きや消化液の分泌を、自分でコントロールできるはたらきを持っています。脳からの命令がなくても、腸だけで動くことができるのが大きな特徴です。 腸は、自分の力で消化をコントロールするだけでなく、自律神経や迷走神経を通じて、脳ともやりとりしています。このように腸と脳がたがいに情報を送り合うしくみは、「脳と腸の関係(脳腸相関)」と呼ばれています。 なお、本記事では腸→脳に影響を与える際は「腸脳相関」、脳→腸に影響を与える際は「脳腸相関」と記載しています。 腸管神経系とは何か? 腸管神経系は、「第2の脳」と呼ばれるとおり、食道から直腸までの消化管にびっしりと広がる神経のネットワークです。特に、「筋肉のあいだ」や「粘膜の下」にある2つの神経の集まりが、腸の動きや消化液の出し方をうまくコントロールしています。 この神経たちは、感じる・動かす・つなぐといった役割をもち、30種類以上の神経伝達物質(アセチルコリン、セロトニン、ドーパミンなど)を使って、腸の中でたくさんの情報のやりとりを行っています。 腸の情報を脳に届ける「迷走神経」のはたらき 腸と脳をつなぐ神経の中でも、とくに大切なのが迷走神経です。この神経は、なんと約90%が腸から脳へと情報を送っています。つまり、脳は腸からの信号を受けて、気分や感情に影響を受けることがあるのです。 たとえば、緊張するとお腹が痛くなったり、ストレスで下痢になることがありますよね。これは、腸と脳が迷走神経でつながっているからこそ起こる現象なのです。 幸せホルモンは腸で作られる? 実は、腸は神経伝達物質の宝庫ともいえる存在です。体の中のセロトニンの約90%、ドーパミンの約50%が腸で作られていると言われています。これらの物質は、腸の動き(蠕動運動)を調整したり、気分に影響を与えたりする重要なはたらきを持っています。 とくにセロトニンは「幸せホルモン」とも呼ばれ、腸と心のつながりを考えるうえで欠かせない存在です。ただし、腸で作られたセロトニン自体は脳に直接届くわけではありません。その代わり、セロトニンの材料となるトリプトファンが腸から脳に運ばれ、脳内でセロトニンが作られます。 また、腸内細菌が作り出す短鎖脂肪酸などの物質が、間接的に脳内のセロトニン合成に影響を与える可能性も指摘されています。腸で作られたセロトニンは、主に腸の働きを調整するのに使われています。 腸と脳はどうやってつながっている?3つの情報伝達ルート 腸と脳は「神経」「ホルモン・免疫」「腸内細菌」の3つのルートを介して、双方向にコミュニケーションしています。ここでは、それぞれの経路がどのようなしくみで働いているかを詳しく見ていきましょう。 腸と脳を直接つなぐ神経のしくみ:迷走神経と自律神経 腸と脳のあいだで、もっともスピーディーに情報をやり取りするのが、神経のルートです。とくに重要なのが「迷走神経」で、腸の中で何が起きているかを、脳にリアルタイムで伝えています。 さらに、自律神経(交感神経と副交感神経)もこのしくみに関わっています。これらの神経は、食べ物を消化するスピードを調整したり、腸の血流や腸内環境を整えたりと、体の中で腸と脳の橋渡しをしています。 迷走神経と自律神経は、まさに腸と脳を直接つなぐ情報の高速道路のような存在です。 血液を通じた腸と脳の会話:ホルモンとサイトカインの役割 腸は、消化だけでなくホルモンや免疫物質(サイトカイン)を作り出す「情報発信基地」としての役割も担っています。これらの物質は、血液の流れに乗って脳を含む全身に信号を送るしくみになっています。 たとえば、腸内に炎症が起こると、「IL‑6」や「TNF‑α」などのサイトカインが血中に放出され、これが脳に届くと、気分の落ち込みやイライラ感などのストレス反応が現れることがあります。つまり、腸の炎症や免疫の乱れが、心の不調の一因になる可能性があるのです。 さらに、脳と腸をつなぐ迷走神経は、アセチルコリンという神経伝達物質を介して、過剰な炎症反応を抑える役割も担っています。この迷走神経を介した抗炎症作用により、腸内の炎症がコントロールされることで、気分の落ち込みや集中力の低下といった脳への悪影響も緩和されると考えられています。 腸内細菌が心に影響? 最近の研究で特に注目されているのが、腸内細菌(腸内フローラ)が脳とやりとりするしくみです。腸内細菌は、短鎖脂肪酸(SCFAs)という物質(例:酪酸、酢酸、プロピオン酸)を作り、これが腸の神経や免疫細胞に影響を与えています。これらの物質は、腸のバリア機能を高めたり、炎症を抑えたりする働きもあります。 さらに、腸内細菌はGABA(不安を和らげる物質)やセロトニン前駆体など、脳に関係する神経伝達物質やホルモンを生み出すことが知られており、これらは迷走神経や血液を通じて脳に届く可能性があります。 このしくみを通じて、腸内環境が感情の安定、ストレスへの耐性、記憶力や集中力の維持などに関わっていると考えられています。また、腸内細菌のバランスが乱れることで、うつ病やパーキンソン病、アルツハイマー病などのリスクが高まるという研究も進んでいます。 腸と脳の深いつながり:健康と疾患への影響 腸と脳の密接な関係は、単に気持ちや消化にとどまらず、多くの病気や健康問題に関与しています。ここでは、代表的な3つのケースを具体的に解説します。 腸脳相関の代表例:過敏性腸症候群(IBS) 過敏性腸症候群(IBS)は、腹痛や便通の乱れを特徴とする消化器の病気で、世界の5~10%の人が悩んでいると言われています。主な症状としては、腹痛や腹部の不快感、下痢や便秘、あるいはそれらを繰り返すことが挙げられます。 この病気の原因は、腸と脳のやりとり(腸脳相関)の乱れ、腸内細菌のバランスの崩れ、ストレスや不安などの心理的要因などが複雑に関係していると考えられています。特に最近では、腸内環境の悪化が神経や免疫の働きに影響を与え、症状を引き起こす可能性が注目されています。 そのため、IBSの治療には薬だけでなく、食事の内容を見直したり、ストレスを減らす工夫をしたりすることが効果的です。また、心の不安をやわらげるためのカウンセリング(認知行動療法)を受ける人もいます。 最近では、ヨーグルトやサプリメントなどで腸内の菌バランスを整える方法(プロバイオティクス)や、お腹に負担をかけにくい食べ物を選ぶ「低FODMAP食」も注目されています。 参考: Harvard Health Publishing “Pay Attention to Your Gut-Brain Connection — It May Contribute to Anxiety and Digestion Problems” メンタルヘルス(うつ・不安):腸から心へ届く信号 うつ病や不安障害といった心の病気も、実は腸内環境と深い関係があることがわかってきました。最近の研究では、腸の炎症がサイトカインという免疫物質を通じて脳に影響を与え、神経のバランスを乱すことで、気分の落ち込みや不安感につながることが指摘されています。 また、腸内にいる細菌のバランスが崩れる「腸内フローラの乱れ(ディスバイオーシス)」も、メンタルの不調に関わっていると考えられています。このような状態になると、腸で作られるセロトニンなどの神経伝達物質が減少し、心の安定が保ちにくくなります。 その他の疾患:パーキンソン病や認知症の関係 最近の研究では、パーキンソン病や認知症といった脳の病気が、腸の状態と関係している可能性が注目されています。特に、腸内細菌のバランスが崩れたり、腸に慢性的な炎症が起こると、腸の神経細胞に「α-シヌクレイン」という異常なタンパク質が蓄積し、それが神経を介して脳に広がり、病気の進行につながる可能性が指摘されています。 また、最近の研究では、口の中にいる細菌(例:歯周病菌)が腸まで届き、腸内で炎症を起こすことで、認知機能の低下や神経の変性を進める可能性も指摘されています。 このように、脳の病気にも「腸内環境」や「細菌の影響」が関わっているとする新しい視点が広がっており、将来的には腸を整えることで神経疾患を予防・改善できる可能性も期待されています。 参考:nature “Parkinson’s gut-microbiota links raise treatment possibilities” 研究で明らかになった腸と脳の関係 近年では動物実験や新概念によって、腸と脳の関係性がこれまでよりもはるかに深いことがわかってきました。ここでは、その中でも特に注目されている3つのテーマをご紹介します。 腸内細菌がないとどうなる? 腸内細菌が脳に与える影響を調べるために、科学者たちはさまざまな実験を行ってきました。その中でも特に注目されているのが、「無菌マウス」と呼ばれる、腸内に細菌をまったく持たないマウスを使った研究です。 この実験では、無菌で育てられたマウスは、通常のマウスに比べて不安行動が少なく、社会性やストレス反応、記憶機能などが大きく異なることが確認されました。 さらに、これらの無菌マウスに通常の腸内細菌をあとから入れる(移植する)と、社会性の低さなど一部の異常な行動が改善されることも確認されています。特に幼少期の腸内細菌の存在が、脳の発達に重要な役割を果たすと考えられており、腸と脳の関係を裏付ける重要な研究成果となっています。大人になってからも、腸内環境は脳の働きや気分に影響を与えることがわかってきています。 参考:Heijtz, R. D., Wang, S., Anuar, F., Qian, Y., Björkholm, B., Samuelsson, A., Hibberd, M. L., Forssberg, H., & Pettersson, S. (2011). Normal gut microbiota modulates brain development and behavior. Proceedings of the National Academy of Sciences, 108(7), 3047–3052. こころに効く腸内細菌「サイコバイオティクス」とは? 最近、腸と脳のつながりに注目が集まる中で登場したのが、「Psychobiotics(サイコバイオティクス)」という考え方です。これは、腸内環境を整えることで、ストレスや不安、うつ症状などの「こころの不調」をやわらげることが期待される菌や食品のことを指します。 ハーバード大学などの研究によると、腸内にいる細菌たちは、神経・ホルモン・免疫などを通じて脳と絶えずやり取りしており、その影響は気分、行動、さらには脳の発達や老化にも関わることが分かってきました。また、先述した通り特定の腸内細菌はセロトニンやGABAといった神経伝達物質のバランスにも関係しているため、「お腹を整えることが心の健康にもつながる」という視点が生まれています。 現在、乳酸菌やビフィズス菌などのプロバイオティクスが、実際にストレスや不安感の軽減に役立つかを調べる臨床研究も進んでおり、今後は心のケアにも菌が活用される時代がやってくるかもしれません。 参考:Sarkar, A., Lehto, S. M., Harty, S., Dinan, T. G., Cryan, J. F., & Burnet, P. W. J. (2016). Psychobiotics and the Manipulation of Bacteria–Gut–Brain Signals. Trends in Neurosciences, 39(11), 763–781. インテロセプション:体内感覚が“こころ”にする役割 腸と脳の関係をより深く理解するうえで、近年注目されているのが「インテロセプション(interoception)」という考え方です。これは、心拍、呼吸、空腹感、腸の動きなど、体の内側で起こっている変化を脳が感じ取るしくみを指します。私たちが「なんとなく不安」「落ち着かない」と感じるとき、実はこの体内の情報処理が背景にあることが多いのです。 この感覚は、自律神経や迷走神経などを通じて脳に伝えられ、島皮質や前帯状皮質を含む感情や意識に関わる脳の領域で処理されます。そしてそれが、私たちの気分、判断、ストレスへの反応に影響を与えるのです。 たとえば、過敏性腸症候群(IBS)の患者では、腸の違和感に対して脳が過剰に反応することが確認されており、こうした「体内からの信号」に対する感じ方のズレが、不安やうつなどのメンタル不調と関係している可能性も指摘されています。 現在では、マインドフルネス瞑想、呼吸法、バイオフィードバックなどを使って、このインテロセプションの感度やバランスを整える取り組みが、新しいメンタルケアの方法として期待されています。 参考:Alhadeff, A. L., & Yapici, N. (2024). Interoception and gut‑brain communication. Current Biology, 34(22), R1125–R1130. 腸と脳の健康を支える3つの習慣 腸と脳の強い結びつきを背景に、日常で取り入れやすい3つの習慣を紹介します。食事・生活習慣・サプリメントの観点で、腸脳相関を意識したケアを続ければ、心身の健康維持に効果が期待できます。 食事で整える腸と脳のリズム 腸と脳の健康を保つには、まず腸内細菌が元気に働ける環境づくりが欠かせません。そのために重要なのが、日々の食事です。腸内細菌のエサとなる食物繊維(全粒穀物、豆類、野菜、果物など)を意識して摂取することで、腸内環境が整いやすくなり、腸が作り出す神経伝達物質や代謝物の働きもサポートされます。 また、発酵食品(ヨーグルト、キムチ、納豆、味噌など)は生きた菌を体内に届ける手段となり、多様な色の野菜は、さまざまなビタミンや抗酸化物質を補ううえで効果的です。これらの食品をバランスよく取り入れることで、腸内細菌が短鎖脂肪酸(SCFA)をつくりやすくなり、結果的に腸と脳のスムーズな情報交換=腸脳相関を支えることにつながります。 生活習慣で整える方法 腸と脳の健康を支えるには、日々の生活習慣も見直すことが欠かせません。特に、ストレスは自律神経を乱し、腸内環境や脳の働きに悪影響を及ぼすことがあります。こうした影響を防ぐためにも、ストレスとうまく付き合う生活の工夫が大切です。 たとえば、深呼吸やマインドフルネス、適度な運動は、心身をリラックスさせ、自律神経のバランスを整えるのに効果的です。また、自然の中で体を動かす「グリーンエクササイズ」は、ストレス軽減や気分転換に役立つとされており、腸と脳の健全なやりとりを後押しします。 十分な睡眠や規則正しい生活リズムも含め、こうした日常の積み重ねが、腸と脳のつながりを良好に保つ基本となります。 サプリやプロバイオティクスの選び方 腸と脳の健康をサポートする目的で、プロバイオティクス(乳酸菌やビフィズス菌など)を取り入れる人が増えています。これらは、ストレスの緩和や過敏性腸症候群(IBS)の改善に効果があるとする研究もありますが、菌の種類や製品によって効果に差があるため注意が必要です。 製品を選ぶ際は、臨床試験などの科学的根拠がある商品を基準にするのがおすすめです。また、腸内の善玉菌を育てる食物繊維やプレバイオティクス(イヌリンやフルクトオリゴ糖)も、あわせて意識するとより効果的です。 腸を整えれば、心も整う 腸と脳は神経、ホルモン、免疫などを通じて密接につながっており、この「腸脳相関」は私たちの体調や気分、行動にも影響を与えています。腸内環境を整えることで、ストレスに強くなったり、不安や落ち込みが和らいだりする可能性もあるのです。 そのためには、食物繊維や発酵食品を含む食事、ストレスをためにくい生活習慣、信頼性のあるプロバイオティクスの選択など、日常の小さな積み重ねが大切です。腸を意識した暮らしが、こころと体の両方を整える第一歩になるでしょう。

社会的メタ認知の正体──他人の理解を脳はどう見抜くのか?

人と一緒に何かに取り組むとき、ふと「この人、今どのくらい理解してるんだろう?」「自分でやった方が早いかも」と思ったこと、ありませんか? 実は、こうした「相手の能力や理解度を推測する」という行動には、私たちの脳が持つ意外な仕組みが関係していることが、最新の研究で明らかになってきました。さらにそれは、私たちが自分自身のことをどう認識しているか──つまり内省(メタ認知)と深く関係しているのです。 今回は、理化学研究所らの研究チームが発表した論文『Asymmetric projection of introspection reveals a behavioral and neural mechanism for interindividual social coordination』(Nature Communications, 2024年)をもとに、人間同士の「協力のメカニズム」に迫ります。 自分を他人に投影する?「社会的メタ認知」という仕組み この研究では、他者の能力をどう推測するかという脳の働きを、2つの視点から捉え直しています。 1つは、これまでの社会心理学でも知られていた「社会的認知」──つまり相手の過去の行動や一般知識をもとに能力を推定する方法です。たとえば「この人はエキスパートだから難しい課題もこなせるだろう」といった、いわば経験則のようなものです。 もう1つが、本研究の鍵となる概念である「社会的メタ認知(social meta-cognition)」です。これは、自分自身の認知や判断を内省し、それを「相手にも当てはめて」能力を推測するというプロセスです。たとえば「自分ならこの問題、ちょっと難しいけど解けるかも。だから、あの人もできるかもしれない」と想像するような感覚のことを指します。私たちは無意識に、こうした「自分の感覚を相手に投影する」ことで、他者を理解しようとしているのです。 実験:意思決定は「相手の肩書」に影響される? 研究チームは、実験参加者に「自分より成績の悪い人(ビギナー)」と「自分より成績の良い人(エキスパート)」を相手に、協力タスクに取り組んでもらいました。 このタスクは「ランダムドット運動方向判断」と呼ばれるもので、画面上でランダムに動く点の集団を見せられ、そのうち何パーセントかが同じ方向に動いている中で「その共通方向がどちらか」を当てるという課題です。 参加者は毎回、以下のような判断を迫られます: 自分が解答する問題と、他者が解答する問題の2つが画面に表示される(どちらの問題も難易度が異なる)。 参加者はどちらの問題に挑戦するかを選択する(自分で解く or 他人に任せる)。 選択した問題に正解すれば報酬が得られる。 重要なのは、「相手に任せるか、自分で解くか」を問題の難易度と、相手の能力の見積もりから判断しなければならない点です。 相手の実力は、事前に収集されたデータに基づいてプログラムされたビギナー/エキスパートの仮想人物であり、参加者にはそのプロフィールが示されます。参加者は、他者の成績を過去の試行から学習しつつ、毎回最も報酬が得られそうな選択をするよう求められます。 すると驚くべきことに、ビギナーと組んだときの方が、参加者が自分で解くか相手に任せるかという判断の選択精度が高かったのです。逆に、エキスパートと組むと誤った判断が増えてしまいました。これは、自分のメタ認知(内省)を他者に投影することが有効なのは、「自分と同等か、それ以下の相手」に限られるという仮説を裏付けるものでした。自分よりはるかに優秀な人の行動は、自分の経験だけではうまく予測できない──そんな脳の「限界」が見えてきたのです。 出典:Miyamoto, K., Harbison, C., Tanaka, S. et al. Asymmetric projection of introspection reveals a behavioural and neural mechanism for interindividual social coordination. Nat Commun 16, 295 (2025). https://doi.org/10.1038/s41467-024-55202-0 脳の中では何が起きているのか? このメカニズムをさらに掘り下げるため、研究チームはfMRI(機能的磁気共鳴画像法)を使って、タスク中の脳活動も測定しました。 すると、ビギナーと組んだときには前頭葉の一部(エリア47)が活性化していたのに対し、エキスパートと組んだときには側頭頭頂接合部(TPJ)という別の領域が活性化していることが分かりました。この結果からエリア47とTPJは以下のような機能をもっていることが判明しました。 エリア47:自分の内省を他人に投影するときに使われる領域(社会的メタ認知) TPJ:相手の知識や経験など「既知の情報」に基づいて判断する領域(社会的認知) 出典:Miyamoto, K., Harbison, C., Tanaka, S. et al. Asymmetric projection of introspection reveals a behavioural and neural mechanism for interindividual social coordination. Nat Commun 16, 295 (2025). https://doi.org/10.1038/s41467-024-55202-0 さらに、エリア47に対してTMS(経頭蓋磁気刺激)を用いて一時的に機能を抑えると、ビギナーとの協力時の判断精度が下がることも分かりました。つまり、エリア47が社会的メタ認知にとって不可欠な領域であることが裏付けられたのです。 協力のズレは認知のズレ? この研究が示すのは、人間の協調行動には「相手をどう見るか」という非常に繊細な認知プロセスが関わっているということです。 しかも、相手の実力が自分より高すぎると、かえって状況を正しく判断できなくなる 見誤ってしまう可能性があります。これはチームビルディングや教育、さらにはAIとの協働においても重要な示唆になるでしょう。 「自分だったらこう考えるはず」と思って相手にも同じような思考を当てはめることで、私たちはスムーズに協力しやすくなります。しかし 、それが通用しない相手に出会ったとき、どうすれば良いのでしょうか? ──そのような場面では、私たち自身が持っている「ものの見方」を、柔軟に広げていく必要があるということかもしれません。 脳は、自分を通して他人を理解する鏡でもあります。 その鏡が少し歪むだけで、人との信頼や協力のかたちが大きく変わってしまうのです。 🧠 編集後記|BrainTech Magazineより 現代は複雑化した社会であり、異なるバックグラウンドやスキルを持つ人同士が協力し合う場面が増えています。そんな中、本研究は他者の心を理解し、協調するための脳の巧妙な仕組みを垣間見せてくれました。自分自身を鏡にして相手を映し出すように推し量る──この不思議な心の働きは、人間社会の円滑な営みに一役買っているようです。 📝 本記事で紹介した研究論文 Miyamoto, K., Harbison, C., Tanaka, S. et al. Asymmetric projection of introspection reveals a behavioural and neural mechanism for interindividual social coordination. Nat Commun 16, 295 (2025). https://doi.org/10.1038/s41467-024-55202-0

ウェルビーイング時代に注目のニューロテックとは?国内外の注目企業・最新事例まとめ

私たちの暮らしや働き方が大きく変わる中、「心と体のバランスをどう整えるか」は、ビジネスパーソンから学生、子育て世代まで、すべての人にとって重要なテーマになりつつあります。そんな中でいま注目を集めているのが、脳の状態を見える化し、心のコンディションに働きかけるニューロテック(ブレインテック)の活用です。 最先端の脳科学とテクノロジーが、メンタルヘルスやライフバランスといった「ウェルビーイング」にどう貢献しているのか、国内外の最新事例をもとに、その広がりと可能性を探っていきます。 ニューロテクノロジーがウェルビーイングに注目される背景 メンタルヘルスやライフバランスへの関心が高まる現代、脳とテクノロジーを融合したニューロテック(ブレインテック)がウェルビーイング分野で大きな注目を集めています。脳波や神経の活動を測定・分析し、その情報をフィードバックすることで、ユーザーが自身の心の状態やパフォーマンスをより良く理解し、自己調整を促す技術は、これまで主に医療や研究の場で使われてきましたが、最近では私たちの生活の中にも少しずつ広がり始めています。 その背景には、世界規模でのメンタルヘルス課題と技術の進歩があります。世界保健機関(WHO)によれば、全世界で3億人以上がうつ病を患っており、日本国内でも約8割の人が何らかの悩みや不安を抱えて生活していると言われます。こうした背景に応える形で、ニューロテック企業への注目と投資も拡大しています。 たとえば、AmazonやGoogleなど世界的企業も、この分野の有望スタートアップの買収・提携に関心を示しており、市場拡大が加速しています。また日本政府においても、ムーンショット型研究開発制度にニューロテック関連プロジェクトを採択するなど支援を始めており、国内外でニューロテクノロジーの応用が一気に進んでいます。 参考:Zion Market Research, "Global Mental Health Technology Market Size, Share, Growth, Analysis, Report, Forecast 2024-2032," Zion Market Research 国内におけるニューロテック活用事例 日本国内でも、ウェルビーイング向上を目指すニューロテックの取り組みが活発化しています。いくつかの最新事例をご紹介します。 株式会社NeU(ニュー)  NeUは、東北大学と日立ハイテクの共同出資によって設立された脳科学ベンチャー企業です。2018年にはメンタルヘルス対策企業のウェルリンク社と提携し、働く人のストレス状態を可視化し、脳トレーニングやニューロフィードバックを通じて自己調整能力を高めることを支援する法人向けサービス『Best』を発表しました。 また、オフィス設置用に近赤外光(NIRS)を使った簡易脳活動計測器も提供しており、約5分間の本格的なニューロフィードバック訓練を通じて、ストレス耐性の向上や認知機能のアップを図るプログラムも組み込まれています。 社員一人ひとりの脳コンディションを整えることで組織全体の活力向上につなげる、「脳科学×健康経営」のソリューションとして注目されています。 参考:株式会社NeU「脳科学知見を活用した新セルフチェック&トレーニング「Best」を開発」 VIE株式会社(ヴィー) 神奈川県鎌倉市に拠点を置くスタートアップ・VIE株式会社は、イヤホン型の脳波計「VIE ZONE」の開発を手がけています。2025年5月からは、法人向けのニューロミュージック配信サービス「Neuro BGM(β版)」の提供もスタートしました。 このサービスでは、神経科学の知見と脳波データに基づいて開発された楽曲を、シーンや時間帯に応じて自動再生します。音楽の力で集中力とリラックスのバランスを整え、ストレスの軽減や生産性の向上、チームのエンゲージメント強化など、職場や店舗の環境改善が期待されています。 脳の状態に働きかける音楽によって、日々のパフォーマンスを自然に引き出す──そんな新しいアプローチが、企業のウェルビーイング経営を後押しする手段として期待を集めています。 参考:VIE株式会社「脳科学にもとづくオフィス・店舗向けBGMサービス「Neuro BGM(β版)」」 株式会社CyberneX(サイバネックス) CyberneXは、脳と社会をつなぐBCI(ブレイン・コンピュータ・インターフェース)技術の実用化に取り組む企業です。長年にわたる脳情報の研究をもとに、リラックスや集中といった「こころの状態」を脳波で見える化する独自の技術を開発しています。なかでも、癒し効果を脳波で測定・分析できるツール「α Relax Analyzer」は、さまざまな分野で注目を集めています。 この製品は、AIによる自動分析機能「XHOLOS Brain Insight AI」を搭載しており、専門知識がなくても脳波データの理解や活用が可能です。さらに、個人ごとに最適な商材をレコメンドできるため、パーソナライズされた体験の提供や、ウェルビーイングの向上にもつながっています。 アロマ、音楽、食品など幅広い実証実績があり、リラックスという感覚を科学的に伝えるマーケティング支援ツールとしても広がりを見せています。 参考:CyberneX「α Relax Analyzer」 海外におけるニューロテック活用事例 海外でもニューロテックを活用したウェルビーイング向けサービスが次々と登場しています。代表的な最新事例をいくつか見てみましょう。 Flow Neuroscience(スウェーデン) Flow Neuroscienceは、自宅でうつ症状の改善を目指せる非侵襲型ヘッドセットを開発したスタートアップです。頭に装着するこのデバイスは微弱な電流(tDCS)を用いて脳を刺激し、連携するアプリでは行動療法に基づいたトレーニングプログラムを提供します。 薬に頼らずに脳の働きにアプローチする「デジタル脳刺激療法」として注目されており、利用者の約81%が3週間以内に症状の改善を実感したという報告もあります。現在は、英国の公的医療制度NHSでも試験導入が進められています。 参考:Exploding Topics. "20 Neuroscience Startups Accelerating Market Growth (2024)." Neurable(米国) もともとはVR向けの技術開発からスタートしたNeurableは、現在、脳波から感情や集中状態を読み取るヘッドホン型デバイス「MW75 Neuro」を開発しています。この製品は、イヤホンに内蔵されたセンサーが脳波を計測し、AIがその信号を解析することで、ユーザーの集中度やリラックス度など、特定の脳活動パターンに関連する状態をリアルタイムで推定することが可能です。 このデバイスにより、日々の行動や働き方を自分の脳の状態に合わせて最適化できることを目指しており、燃え尽き症候群(バーンアウト)の予防にもつながると期待されています。2024年には約1,300万ドル(約18億円)の資金調達にも成功し、働く人のメンタルヘルスを支え、生産性の向上に貢献する次世代デバイスとして注目を集めています。 参考:Neurable公式HP InteraXon(カナダ) InteraXon社が提供する「Muse」は、瞑想によるマインドフルネス習慣をサポートする脳波計測ヘッドバンド型デバイスです。ヘッドバンドを装着し、専用アプリと連携することで、リアルタイムに脳波を解析しながら瞑想の深さや集中度をフィードバックしてくれます。脳の状態に合わせて、自然音やガイド音声が変化するため、自分の内面の変化に気づきやすく、初心者でも続けやすいのが特長です。 ユーザー調査によれば、77%がストレス管理がしやすくなり、78%がよりリラックスできたと実感しており、ストレス軽減・集中力向上・情緒安定といった多面的なウェルビーイング効果が報告されています。 参考:Muse (InteraXon Inc.). "Benefits of Muse." Muse. ニューロテックがもたらすウェルビーイングへの寄与 ニューロテックは、心と体の状態を“見える化”し、自分に合ったセルフケアを可能にする技術として、ウェルビーイングの向上に大きく貢献しています。ストレスや集中力といった主観的な感覚を客観的なデータとして捉えることで、早期の気づきや予防的なケアがしやすくなりました。 さらに、個人の脳の状態に合わせて音楽や瞑想、行動プログラムをパーソナライズできる点も魅力です。近年ではデバイスの小型化・簡易化が進み、こうした技術が日常生活の中に自然に取り入れられるようになっています。 「感じ方」や「思考のクセ」といった内面にアプローチできるニューロテックは、働き方や暮らし方を見直すきっかけを与えてくれる、新しいセルフマネジメントの手段として注目されています。

アニメから生まれた脳への興味:研究者・山田崇暉さんが取り組む研究のルーツ

今回は、上智大学大学院で「嗅覚刺激と認知活動の関係」の研究に取り組まれている山田さんにお話を伺いました。インタビューの前半では、山田さんの研究に至るまでの背景やこれまでの研究成果などについて詳しくご紹介していますので、ぜひあわせてご覧ください。 前半記事 ▶香りが脳にもたらす影響を解明する:上智大学・山田崇暉さんが語る「嗅覚刺激と認知活動の関係 インタビューの後半では、山田さんのパーソナルストーリーに焦点を当て、幼少期の生活や現在の趣味、研究に関するエピソードなどについて伺いました。 研究者プロフィール 氏名:山田 崇暉(やまだ たかき)所属:上智大学大学院 理工学研究科 理工学専攻情報学領域研究室:矢入研究室研究分野:嗅覚刺激、脳情報デコーディング、ワーキングメモリー 週に1度は面談:教授と学生の距離が近い研究室 ── まずは改めて簡単に自己紹介をお願いします。 私は現在、上智大学大学院の理工学研究科理工学専攻情報学領域に所属しており、博士前期課程の2年生として研究活動を行っています。 取り組んでいる研究のテーマは「外界からの刺激、および人の心の状態と脳活動の関係の解析」です。具体的には、「嗅覚刺激は人間の認知活動のパフォーマンスを向上させるか」という問題を研究しています。 ── 研究を始めるにあたってどのようなことを勉強しましたか? まずは、研究室の勉強会を通じて脳科学分野の知識を身に着けていきました。具体的には、「メカ屋のための脳科学入門」や「史上最強カラー図解 プロが教える脳のすべてがわかる本」、「脳波解析入門 Windows10対応版: EEGLABとSPMを使いこなす」といった本を全員で読み進めていました。 そして、研究を1から組み立てるためにひたすら論文を読み続けました。その過程で、香りと脳の関係について記述されている論文を読み、どのような香りを被験者に提示すればよいかを学びました。 ── 基礎知識は勉強会で、応用知識は論文を読むことで学んだのですね。勉強会は研究室の習慣行事として行われていると思うのですが、その他に研究室の中でのユニークな習慣があれば教えてください。 週に1度、教授が朝9時から夕方にかけて研究室メンバー全員と面談を行っているところがユニークだと思っています。内容は、研究のことはもちろん最近の調子や近況報告などのプライベートな話もしています。 ── 教授と学生の距離が近い研究室なのですね。 小さい頃からの好奇心と兄の影響が進路決定に — 子供のころはどのようなことに興味をもっていましたか? 小学生の頃からクラブや部活動を通じて、野球、サッカー、ハンドボール、バスケ、陸上 といった様々なスポーツに興味を持って取り組んできました。興味があることはとにかく取り組んでみるという性格だったので、結果的に幅広い種類のスポーツに打ち込んできました。 他には、当時はアニメが好きで様々な作品を観ていました。特に中学生のときに見た、VR機器を脳に装着して仮想世界の中で生きる物語を描いたアニメ『ソードアート・オンライン』は、現在の自分に強い影響を与えており、このアニメを見たことをきっかけに、脳と機械をつなぐ技術に興味を持ち始め、BMI1や脳情報の解読を主題としている現在の研究室を選択しました。 — 好奇心と行動力を兼ね備えた学生時代だったのですね。『ソードアート・オンライン』は、脳科学に興味を持つ人の間でよく話題になる作品なのでしょうか? 研究室の先輩もこのアニメを見たことで脳の研究に興味をもったと言っていました。またインターネット上では、情報系に触れるきっかけとなったアニメとして取り上げられることもあるので、自分の研究室で取り扱っている「脳科学×情報」の分野の研究者には、このアニメの影響を受けている人が少なくないと感じています。 — 多くの研究者の進路に影響を与えたアニメなのですね。それでは、様々なスポーツやアニメに興味をもっていた当時の自分に影響を与えた人物はいましたか? 小さい頃から兄の影響を受けてきました。兄は目標に対してコツコツと努力しながら結果を積み上げていくタイプの人間で、その姿を見て自分も兄のような人間になりたいと感じていました。 努力の姿勢以外にも兄から受けた影響は多く、陸上に関しては兄が大会に出場する姿を見て面白そうと感じたことで始め、研究テーマを決めるきっかけとなったソードアート・オンラインも兄の薦めで見始めました。 好奇心と行動力は今も健在!47都道府県制覇まであと5県 ── 現在ハマっている趣味はありますか? クラシックギターと旅行にハマっています。 クラシックギターは10年間続けており、最近は「マチネの終わりに」という映画の劇中歌としても登場した「大聖堂」という曲を練習しています。 旅行は国内外様々なところに行っているのですが、国内に関しては学生中に全ての都道府県に訪れたいと考えており、現在残すところあと九州の5県となりました。 ── とてつもない継続力と行動力ですね!山田さんがこれまで旅行で訪れた場所で、一番良かったと思う場所があれば教えてください。 山口県の萩という海沿いの街が印象的でした。そこは街全体が世界遺産で、時間がゆっくり流れていると感じるような穏やかで心地の良い場所でした。 同じくらい印象的だった場所として、青森でふらっと入った居酒屋が強く記憶に残っています。その店は特別何か変わった点があるような居酒屋ではなかったのですが、店主がとても面白い人で、そこに来る他の客と仲良くなって一緒に飲むというスタイルを取っていました。そのような飲み方は初めてであったため、とても新鮮で衝撃を受けました。 ── どちらも旅行の醍醐味と言える素敵な経験ですね。最後に、これから同じ領域に挑戦してみたい学生や若い研究者に向けて、メッセージをお願いします。 脳科学はまだまだ未知のことが多い分野だと思います。だからこそ、様々な視点や発想で研究を行っていけることがこの分野の面白さだと思います。 今後、脳に関する研究が発展することで、アニメのような世界がいつか現実になる日が来ると信じています(社会実装するには様々な問題があると思いますが、、)。 面白そうだなと思ったり、脳に少しでも興味があったりしたら、ぜひこの分野に飛び込んでみてほしいです。きっと夢中になれるようなものがたくさん転がっていると思います。 Braintech Magazineでは、ブレインテック関連の記事を中心にウェルビーイングや若手研究者へのインタビュー記事を投稿しています。 また、インタビューに協力していただける研究者を随時募集しています。応募はこちらから→info@vie.style

香りが脳にもたらす影響を解明する:上智大学・山田崇暉さんが語る「嗅覚刺激と認知活動の関係

脳の仕組みを解明し、人類の可能性を広げる研究分野として注目を集める「脳科学」。私たちVIEでは、この魅力的なテーマに挑む若手研究者に焦点を当て、彼らの研究内容や情熱に迫るインタビュー企画をスタートしました。 本企画は、さまざまな視点から脳科学の最新研究を紹介することで、読者の皆さまに脳の神秘や研究の楽しさをお届けするとともに、新しい視点で脳について考えるきっかけとなることを目指しています。 今回のインタビューでは、上智大学大学院で「嗅覚刺激と認知活動の関係」の研究に取り組まれている山田崇暉さんにお話を伺いました。インタビューの後半では、山田さんのパーソナルストーリーをたっぷりご紹介していますので、ぜひあわせてご覧ください。 研究者プロフィール 氏名:山田 崇暉(やまだ たかき)所属:上智大学大学院 理工学研究科 理工学専攻情報学領域研究室:矢入研究室研究分野:嗅覚刺激、脳情報デコーディング、ワーキングメモリー ゼロから構築した「香りと脳」の研究 ── 現在取り組まれている研究について教えてください。 外界からの刺激や人の心的状態と脳活動の関係を明らかにするため、脳情報デコーディングに関する研究を行っております。具体的には、被験者さんに香り環境下で課題に取り組んでもらい、香りと脳活動の関係を研究しています。 ── 「香り環境下で行う課題」はどのような内容を実施しているのですか? 実験の中である香りを提示して、その香りを嗅ぎながら被験者さんにN-back taskという認知課題に取り組んでもらいます。N-back taskは、画面に一定の間隔で次々に表示される数字を見て、現在表示されている数字がN個前に表示された数字と一致するときに、ボタンを押すなどして応答する認知課題です。 たとえば、3-back taskでは「5」「1」「4」と順に数字が表示されたあと、再び5が表示された場合、それは3つ前の数字と一致するため応答します。一方、それ以外の数字が表示された場合は応答しない、というような課題です。 この課題を行うことによって、被験者の短期記憶能力や集中力をスコア化します。その後、香りを提示した場合と提示しなかった場合の結果を比較することで、提示した香りを嗅ぐことが、タスクのパフォーマンスにどのように影響を与えるかを調べています。 ── 研究テーマを決定したあとはどのような作業から取り掛かったのですか? 私の研究は、誰かの研究を引き継いだものではなく、方針を1から自分で考えて組み立てなければならない内容であったため、まず関連する論文を読み込んで知識をつけるところから始めました。特に匂いと脳の関係が書いてある論文を重点的に読むことで、どのような匂いの提示が認知機能に影響を与えるのかを学びました。 他には、研究室に匂いを使ったマーケティングの研究をしている先輩がいたため、コンタクトを頻繁に取ることで、研究に関するアドバイスをいただきました。 香りで人の潜在能力は引き出せるのか? ── それでは、現在の研究プロセスで直面している課題や障壁について教えてください。 香りを扱う実験を行うため、その香りを被験者の方にしっかりと提示する必要があります。そのため、どのように香りを提示すれば良いかという部分であったり、実験中にその香りを長く持続させる方法だったりを模索しながら行っています。 ── 香りを長く持続させるために、これまでどのような工夫をしてきましたか? まず先行研究を参考にしながら、香料の使用割合を調整しました。 また、被験者の協力を得て予備実験を重ねることで、被験者が香りを確実に認識できる提示方法を検討しました。 加えて、N-backタスク(N = 0,1,2)において各フェーズごとに新たな香料を用意するべきか、それとも同じ香料の使用を継続すべきかを検討し、長時間同じ香料を使用すると香りが弱くなり、感知しにくくなることを考慮して、フェーズごとに香料を新しくする方法を採用しました。 さらに、香りの提示方法として、香料にお湯を注ぐことでより強い香りを発生させる工夫も行いました。 ── どのような成果を期待して研究を進めているのですか? 課題中に香りを提示することで、提示していないときよりも課題の正答率が上昇することや、注意力と関係があるとされている脳波成分「P300」に変化が生じることを期待しながら、実験に取り組んでいます。 社会課題を解決する、そのために必要なこと ── 山田さんの研究の成果は社会や業界にどのような影響を与えると考えますか? リラックスしたい時にはどの香りをかげば良いか、また集中したい時にはどのような香りを嗅げば良いかというように、様々な状況に応じて香りを使用することで人間が本来の能力を発揮できるようになると考えます。VIEでは音楽を使用して、集中やリラックスを促す研究を行っていると思いますが、香りを使用することでも同様の効果を得ることができるのではないかと考えます。 ── 具体的に応用できそうと考えられるような例はありますか? たとえば、自習室に集中力を向上させる香りを発するディフューザーを設置することによって、そこで勉強する人の集中力を向上させるといった取り組みができるのではないかと考えています。 この取り組みを実現するためには、人の集中力に影響を与える香りを突き止めることが重要であるため、私の研究の内容が関連すると考えられます。 ── 嗅覚刺激と認知活動に関する研究が、社会貢献に繋がる良い例ですね。では、このようにご自身の研究が実際に社会に影響を与えるためにはどのような要素が必要だと考えますか? 私の嗅覚刺激と認知活動の研究だけでなく、脳科学研究の内容が社会に影響を与えるためには、社会がその内容を信頼できるような実績や環境を作ることが必要だと考えています。 特にその研究に関連する文献の量や、その技術分野自体が社会にどう見られるかは、脳科学技術の社会実装を目指していく上で重要なポイントになるはずです。 逆に、脳科学自体が社会に広く認知され、その安全性が担保されていけば、今の研究や脳科学の様々な研究もいい方向に進んでいくと考えています。 インタビューの後半では、山田さんの研究者を目指すまでの経緯や学生に向けたメッセージについて伺いました。特に、これから研究の道に進もうと考えている学生さんには必見の内容となっています。ぜひ併せてご覧ください。 後半記事 ▶アニメから生まれた脳への興味:研究者・山田崇暉さんが取り組む研究のルーツ

ニューロテックで実現する9つのウェルビーイング

ウェルビーイング──それは単なる「健康」ではなく、心・身体・社会のつながりすべてが満たされた状態を指します。近年、このウェルビーイングの領域において「ニューロテック(ブレインテック)」が大きな注目を集めています。 脳波や神経の活動を測定・分析し、その情報をフィードバックすることで、ユーザーが自身の心の状態やパフォーマンスをより良く理解し、自己調整を促す技術は、これまで医療や研究に限られてきましたが、今では一般の私たちの生活にも少しずつ取り入れられつつあります。 今回は、私たちの心や体の健康=ウェルビーイングを高めるために、ニューロテックがどのような場面で役に立つのかを、9つのポイントに分けてお伝えします。 1. 精神的ウェルビーイングの向上 メンタルヘルスのケアがますます重視される現代において、自分の心の状態を“見える化”できるニューロテックは、有効なセルフケアツールとして注目を集めています。 たとえばアメリカの「Muse」は、ヘッドバンド型の脳波計と瞑想ガイドアプリを連動させたユニークなデバイスです。ユーザーが瞑想中に呼吸や思考が乱れていると「風の音」でフィードバックが与えられます。 具体的には、心が穏やかで集中している状態では風の音が穏やかになり、雑念が入ったり集中が途切れたりすると風が強まる、という仕組みです。これにより、ユーザーはゲーム感覚で自分のマインドフルネスの状態を把握し、瞑想の習慣化や集中をサポートするように設計されています。 インドの「Neuphony」やイスラエルの「Myndlift」などは、メンタルヘルスクリニックでも使われ始めており、医療と連携した脳波ベースの認知トレーニングも広がっています。 このように、ニューロテックを活用すれば、ストレスや不安を感覚ではなくデータとして理解できるようになります。自分の「今の状態」に気づき、整える習慣をつくることが、精神的ウェルビーイングの第一歩につながるのです。 参考:goodbrain「脳波デバイスmuse2」 2. 認知機能の改善と予防 集中力や記憶力、思考力などの認知機能は、年齢に関わらず私たちの生活に直結する重要な力です。近年、ニューロフィードバックや脳波トレーニングを活用した技術が、認知機能を鍛える手段として注目されています。 具体的には、専用の脳波センサーを装着し、画面上の課題に取り組むことで、集中力や反応速度といった認知機能をトレーニングします。トレーニング中の脳波はリアルタイムで計測され、「今、どれくらい集中できているか」が数値やグラフでフィードバックされるため、自分の脳の状態を意識しながら取り組むことができます。 また、加齢に伴う認知機能の低下は現代社会の大きな課題ですが、ニューロフィードバックは高齢者の認知機能維持や軽度認知障害(MCI)の予防的アプローチとしても期待されています。 このようなテクノロジーによる介入の利点は、薬物介入に比べて副作用のリスクが低く、かつ習慣として継続しやすい点にあります。週数回の短時間セッションを継続するだけでも効果が見込まれ、日常生活に取り入れやすいという利便性も支持されています。 3. ストレス管理とリラクゼーション 仕事や生活のプレッシャーによるストレスは、現代人の大きな課題です。そんな中、脳波を活用したストレス管理に注目が集まっています。脳波(特にベータ波やシータ波)は、緊張やリラックスの状態をリアルタイムで可視化できるため、自分の今のこころの状態に気づくことができます。 たとえば、デバイスを装着するだけで脳波の状態を測定し、ユーザーは自分が今どれだけリラックスしているか、あるいはストレスを感じているかを客観的に知ることができます。さらにそのデータに基づいて、デバイスが心地よい音楽を流したり、誘導瞑想の音声を提供したりすることで、より深いリラクゼーションへと導く設計がされています。 忙しい朝の準備中、昼休みのひと息、あるいは寝る前のひとときに、こうしたサポートを活用することで、知らず知らずのうちにたまっていた緊張を認識し、より深いリラクゼーションへの手助けとなるり、心と体のバランスを意識するきっかけが得られます。 4. 睡眠の質の向上 睡眠は、心身のコンディションを整えるうえで欠かせない時間です。そして脳波は、睡眠の質を測る重要な指標のひとつとされています。特に、深い睡眠時に現れるデルタ波や、リラックス状態に見られるアルファ波など、脳内の活動パターンを把握することで、自分の眠れている実感をより正確に捉えることができます。 近年では、頭に軽く装着するだけで脳波を測定できるヘッドバンド型の睡眠トラッカーが普及しており、就寝中の脳波を記録・解析することで、眠りの深さや途中覚醒のタイミングなどが翌朝に可視化されます。 AIによる分析と連動し、日々の睡眠パターンから『この日は早めに休んだ方がいい』『朝のこの時間が最もすっきり起きられる』といった、あなたに合った睡眠のヒントや傾向を基にしたアドバイスを受け取れるサービスも登場しています(例:株式会社S'UIMIN「InSomnograf」)。 このように、単に眠りの状態を知るだけでなく、その質を向上させるためのパーソナルな道筋を示してくれることで、日々の生活におけるパフォーマンス向上と、より豊かなウェルビーイングの実現に貢献しているのです。 5. 個別化されたウェルビーイング支援 脳の反応は、体質や経験、気分によって人それぞれ異なります。ある人にとってリラックスできる音楽が、別の人には逆に不快だったり集中力を妨げたりすることも珍しくありません。だからこそ、個人に最適化されたウェルビーイングのアプローチが求められており、ニューロテックはその実現に大きな力を発揮しています。 たとえば、イヤホン型脳波デバイスを装着して音楽アプリ「VIE Tunes Pro」を聴くと、リアルタイムで「どの音が自分にとってリラックス効果を高めているか」が数値で確認できます。複数の音楽を聴き比べながら脳波の反応を記録し、もっともリラックス状態を引き出すパターンを見つけていくといった使い方も可能です。 これまでのような、一律に良いとされるものを全員に当てはめるのではなく、自分の脳が本当に反応しているものを見つけて取り入れる、そんな「自分に合ったウェルビーイング」を、誰でも簡単に実践できるようになってきました。 参考:VIE「VIE Tunes Pro」 6. 精神的健康への新たな治療法 心の不調に悩む人が増えるなかで、薬だけに頼らないメンタルヘルスケアへの関心が高まっています。そうした中、脳に直接アプローチする非薬物的な手法として、ニューロテックが新しい可能性を提示しています。 たとえば、ニューロフィードバックは、脳波をリアルタイムに可視化しながら、特定の脳の状態(落ち着いている、集中しているなど)を自分自身でコントロールする練習を行う手法です。これは、認知行動療法のように思考や行動に働きかけるのではなく、脳の動きそのものに働きかけるという新しいアプローチです。 また、tDCS(経頭蓋直流刺激)という技術も注目されています。これは、ごく弱い電流を頭部に流すことで、特定の脳領域の活動に変化を与える方法で、不安感の軽減や意欲の向上、睡眠リズムの安定などを目的とした研究や臨床応用が進められています。 特に、抗うつ薬の効果が出にくい人や、副作用に悩む人にとって、こうした脳への直接的なアプローチは新たな選択肢となりつつあります。もちろんすべての人に万能な方法ではありませんが、医療機関と連携しながら、薬物療法と併用する形で導入されるケースも増えてきています。 7. 社会的つながりと協力の促進 「人とつながること」は、心の健康やチームワークの基盤として欠かせません。実はこのつながりの感覚にも、脳が深く関与しています。 近年、注目されているのが「脳の共鳴(シンクロニシティー)」という現象です。これは、複数の人が同じ体験をしているとき──たとえば一緒に音楽を聴いたり、同じ映像を見たりしているとき──に、脳波のパターンが似た形で同期するというものです。脳がシンクロすることで、自然と一体感や共感が生まれ、チームとしての結びつきが強まる可能性が示唆されています。 また、イベントや教育の現場でも、音楽や呼吸・瞑想などを通じて共鳴を促す体験設計が注目されています。脳がつながることで、言葉を超えた理解や安心感が生まれ、これまで以上に協力しやすい関係が築かれるのです。 ニューロテックはこうした見えないつながりを可視化し、人と人との関係性をより豊かにするサポートも担っています。脳の動きに寄り添うことで、チームワークや共感を高める新しいコミュニケーションの形が、少しずつ広がりはじめています。 参考:VIE「VIE、NTT東・NTTデータ・ストーリーライン運営ライフパフォーマンスを 向上させる「Wellness Lounge」をニューロミュージックで拡張」 8. エモーショナルウェルビーイングの改善 私たちの感情は、出来事そのものよりも、脳がそれをどう受け取り、処理するかによって生まれます。不安やイライラ、落ち込みといった感情も、脳内の特定の領域や活動パターンに深く関係していることがわかってきました。 とくに注目されているのが、「音楽×脳」の組み合わせです。音楽はもともと感情を動かす力を持っていますが、そこに脳波の計測が加わることで、よりパーソナルでタイムリーな体験が可能になります。 たとえば、脳波データに基づいて、ユーザーの感情状態に最適な音楽を自動的に選曲し、提供してくれるようなシステムも考えられます。もしユーザーが不安を感じている脳波パターンを示せば、心を落ち着かせるようなゆったりとしたメロディを流したり、集中を促したい時には、適度なテンポの音楽を流したりする、といった具合です。 これにより、私たちは自分の感情の動きを客観的に認識できるだけでなく、能動的に感情の動きを認識し、脳の活動と連動した音楽の力を借りて、感情の自己調整をサポートすることで、より良い心の状態を目指すことができるようになります。 9. 健康データを用いた予防的アプローチ ニューロテックは、「体調を崩してから」ではなく、まだ不調を感じる前の段階で自分の変化に気づくための手段として注目されています。心拍数、睡眠パターン、活動量、脳波といったデータは、今やスマートウォッチやウェアラブル脳波計などを通じて、日常的に取得できる時代になりました。 これらのデータは単なる記録ではなく、自分の体や心の“今”を知るヒントとして活用されています。たとえば、睡眠が浅くなってきたタイミングや、脳の緊張状態が続いている傾向がデータから見えてくれば、「ちょっと休んだ方がいいかも」「寝る時間を見直そう」といった行動のきっかけになります。 さらに、AIによる高度なデータ解析によって、ユーザーのライフスタイルや体質に応じたパーソナライズされたアドバイスが提供されます。自覚症状が現れる前に、小さな異変をキャッチし、生活習慣の改善へと導く──そんな予防のかたちは、日々のコンディション向上に貢献し、長期的な健康維持の一助となることが期待されます。 ニューロテックがひらくウェルビーイング ウェルビーイングは、科学の力で具体的に改善していける時代が来ています。特にニューロテックは、脳や神経系の状態を多角的に可視化し、私たち一人ひとりの“感じ方”や“思考のクセ”、“心と体のバランス”に合ったアプローチを提供してくれる存在です。 未来の自分を整えるために、神経の仕組みから生活を見直すセルフケア──その選択肢は、これからますます広がっていくでしょう。

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